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漫画とかアニメとか、たまにスポーツのこととかについての日記(多分)
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私の愛したコードギアス

  「コードギアス反逆のルルーシュ(以下「R1」と記述)」及び「R2」の放映が終了した。
 この作品は多くの人に視聴された。それゆえに様々な意見が出され、いろいろと批評も行われている。
 
 私もまた、最後まで通してこの作品を鑑賞した人間として、自分の今の思いを文章として残しておこうと思います。

 R2最終回を見終わったとき、そこに心地よい充足感と、そしてかすかな喪失感があった。少なくとも私は一視聴者として満足することが出来たのだと思う。

 ところで、果たしてこの作品世界においてルルーシュの残したものはなんだったろうか。
 
 ルルーシュは基本的に、妹のナナリーが望む世界を創ろうと行動していた。
 母が暗殺された時にその巻き添えとなり、足が不自由になったナナリー、さらに視力も失ったナナリー。そのナナリーが幸せに暮らせる世界をルルーシュは目指していた。
 R1で、最初は、暗殺の可能性を消す意味から、ブリタニア帝国打倒を目指し、ルルーシュは邁進する。
 しかし、ブラックリベリオンに失敗し、彼は記憶を封じられる。
 R2冒頭で記憶を取り戻したとき、彼のそばに、ナナリーの姿はなかった。
 次のルルーシュの最優先目標は「ナナリーの探索・奪回」となる。
 しかし、その行動の間に、ルルーシュはシャーリー、ナナリー、ロロといった近しい存在を喪っていった。
 そして、彼はもう一度回帰する。ルルーシュは再び、ナナリーの望んだ「優しい世界」を実現しようとしたのだ。(実際にはナナリーはまだ生きているのだが)
 そして、ルルーシュは皇帝シャルルを打倒した。
 シャルルは個全てが「接続」出来る集合体としての世界を創り上げようとした。
 各個人の過去の最も幸せであった状況で全てを固定出来るシステム。
 だが、それは各個の存在の否定にもつながる、としてルルーシュは否定した。
 ナナリーの望んだ「優しい世界」を彼は希求していた。
 そこに強い意志を感じた。
 では、ルルーシュの求める「優しい世界」とは何だったのだろうか。

 そこで、まず、シャルル打倒後の彼の動きを振り返ってみよう。
 彼はシャルル打倒後、皇帝となり、貴族制を廃し、財閥を解体する。
 「ゼロ・レクイエム」の開始である。
 次に、ルルーシュは神聖ブリタニア帝国の超合集国参加を宣言する。武力と民主主義による世界征服を彼は行った。
 ここにおいてルルーシュは、生きていたナナリーを皇帝候補として擁立したシュナイゼルと対決することになる。
 シュナイゼルは「ダモクレス要塞」を本拠とし、大量破壊兵器「フレイヤ」によって、世界を恐怖による支配の下、戦争のない平和な世界を創ろうと目論んだ。
 しかし、それは恐怖政治の下、押しつけられた平和に過ぎないとも言えた。
 このシュナイゼルの平和構想をルルーシュが強く否定したことから、ある程度「優しい世界」の外郭が見えたと感じた。
 それは、この世に生を受けた全ての人々が、自己の幸せを自己の責任のもと、自由に追求出来る世界なのではないか。
 そして、最終話にて、ルルーシュはついにナナリーと再会することになる。

そこに至る過程で重要なキーワードとして「明日」という言葉が出てくる。
第22話にてルルーシュはスザクに語る。
ルル「序の口だよ、まだ。これから俺は多くの血を流す。虐殺皇女の名が霞み、人の記憶から消え去るほどに。」
ルル「ユフィだけではない、ナナリーも。俺たちは失った。失い過ぎた。それでも明日を迎えるためには、まず世界征服から。口にすると笑ってしまうな。」
そこにc.c.が現れて「だが、お前達はやるつもりなのだろう」
ルル「ああ、ゼロ・レクイエムのために」
 このやりとりを見る限り、ゼロ・レクイエムの目的が「明日を迎えること」であると考えられる。

そして更に第24話のシュナイゼルとの対決に置いて「明日」に対する言及がある。

「あなたは今日で世界を固定しようと考えた。だが変化無き日常を生きるとは言わない。それはただの経験だ。」
「その連なりを知識というが」
「やはりあなたは優秀だよ。優秀過ぎるだけに見えていない」
「そう、シャルルは昨日を求めた。貴方は今日を。だが、俺は明日が欲しい」
「明日は今日より悪くなるかも知れない」
「いいや、よくなる。例えどれだけ時間がかかろうとも、人は幸せを求め続けるから」
「それが欲望につながるというのに ハハハ」
「愚かしさも極まったね。それは感情に過ぎないよ。希望や夢という名の虚構……」
「それが皇族という記号で世界を見下してきた貴方の限界だ。俺は何度も見てきた。不幸に抗う人、未来を求める人、みんなが幸せを願い、抗い続けた。ギアスも、仮面も、その根源は……。」
「矛盾だよ。他人の意志を否定し続けた君が、ここにきて人の意志を、存在を肯定しようというのは。もういい、私を殺したまえ。ただし、君もフレイヤで消える。私たちの命で世界に平和を……」
「だからこそ、貴方に俺は「ゼロに仕えよ」という言葉をプレゼントしよう」

 ここでルルーシュが提示した「明日」は、「変化のある日常の進んだ先としての未来」であり、人が幸せを求め続ける、その結果としてより良くなっていくというものである。
  無力でありながら、ルルーシュと向き合い続けることによりルルーシュの孤独を理解するに至ったシャーリーの想い。ただ純粋に理想を追い求めて、第一歩を踏み出しながら儚く散っていたユフィの想い。ルルーシュの触れたさまざまな人々の想いが、彼に人間の持つ力を信じさせたのだ。

そして彼はゼロ・レクイエムを成し遂げ、世界を彼が夢見た明日へと近づける。

 しかし、悲しいことであるが、その世界の明日を希求するために、今までルルーシュが行ったことが全て正当化できるわけではない。

 私は、ルルーシュは、そのことを十分に自覚していたと考える。
 彼はユフィやシャーリーの死に、心を切り裂かれながら、それでも向き合った。
 その中で、彼のギアスにねじ曲げられた人々のことが想起されないわけはないと考えるからだ。
 その上で彼が世界に「明日」をもたらしたから、と言って、それが、全ての贖罪になると考えたとは思えないのです。

 ただ、ゼロ・レクイエムはもう後戻りの出来ない段階まで進んでいた。
 彼の集めた人々の憎しみは、既に他にどこへも行き場がなかったから。

 そしてナナリーも、それについては同じ認識を持っていた。

「それは卑劣なのです。人の心をねじ曲げ、尊厳を踏みにじるギアスは」
「ではダモクレスはどうだ。強制的に人を従わせる卑劣なシステムではないのか」
「ダモクレスは憎しみの象徴になります」
「ッ!!」
「憎しみはここに集めるのです。みんなで明日を迎えるためにも」
(そうか、ナナリー、お前も。なら。)

 この時点では、外形としてナナリーはルルーシュを断罪し、葬り去ることで世界に「明日」を迎えようとしているとも捉えることが出来るだろう。
前後するが、ルルーシュに、ダモクレスを使用したのはお前かと問われ、
「はい。止めるつもりでした、お兄様を。例え、お兄様が死ぬこととなったとしても」
ナナリーはそう答えている。
 しかし、ナナリーはルルーシュの集めた憎しみを分かち合おうとしたのだ、と私は考える。
 例え、世界を敵に回しても、ルルーシュとともにある。それが彼女の素直な心の裡であった。

「ずるいです。私はお兄様だけでよかったのに。お兄様のいない明日なんて……!!」

この後、ルルーシュの死に際し、彼女の語った上記の台詞がそれを証明していよう。

 そして、ナナリーの生存を知ってから、動揺し、ずっとどこか迷い続けていたルルーシュが、このナナリーの「明日」を求める意志を確認した時点で、ゼロ・レクイエムの断行を決している。

(そうか、ナナリー、お前も。なら。)
「ルルーシュ・ビ・ブリタニアが命じる。ダモクレスの鍵を渡せ」
「イヤ、お兄様に渡してはいけない。これ以上、罪を!!」
ナナリーの瞳が深紅に染まり、その表情はやわらかく変容する。
「どうぞ、お兄様」
ナナリーはダモクレスの鍵を差し出す。

(ナナリー、お前はもう立派に自分の考えで生きている。だからこそ俺も俺の道を進むことが出来る。)
「ありがとう、愛してるよ、ナナリー」

 ルルーシュは自分亡き後のナナリーのことが気がかりだった。
 元々、「ゼロ・レクイエム」はナナリーが死んだと彼が思いこんだ後に考え出された計画だった。ナナリーの存在は全く考慮されていなかった。
 それ故に、ナナリーの存命がルルーシュを激しく動揺させていたのだが、ルルーシュは、ナナリーが、自分と同じ「明日」を志向していることを確認し、また、自分がいなくなることで、ナナリーが、世界に「明日」をもたらす人生を送ることが可能だと確信した。

 逆に、自分が生き残れば、自分とともにナナリーが世界の人々の憎しみを全て受けなければいけないのだ、と悟った。

 それでも、彼はナナリーと共に、地獄の日々を生き続ける、という選択をとることも出来たのだと思う。
 ギアスを行使し続け、スザクを敵に回してさえ、彼はナナリーと共に生き続けることが出来たはずだ。
 しかし、彼はそうしなかった。
 それは、彼のギアスにより犠牲となった名もない人々への思いを馳せたから、ではなかっただろうか。

 彼は、判断を誤った。どこで? そもそも、この物語の最初からだろうか。
 そうかもしれない。
 彼は、既にその死をもってすら贖うことの不可能な罪を重ねていた。
 だが、その彼が自らを消したことにより、世界はほんの少しだけ優しくなった。
 それはすぐに壊れる平和、なのかもしれない。十分に有り得ることである。
 その強いられた犠牲に比して、それは充分な成果とはいえないだろう。
 しかし、その思いは、ルルーシュが生き、そして死した証として、人々の心を動かした。

 ラストのc.c.の笑顔こそが、その象徴であろう。

 ルルーシュは大罪人である。

 しかし私は、彼の中に宿った一片のまっすぐな思いに自分の心を重ねて涙した。

 それは感傷なのだろう。しかし、なんと心地よい感傷なのだろうか。

 そして、ただうずくまっていただけだった私は、彼に動かされ、再び歩み始めた。

 ただ一言、お礼を言いたい。ありがとう。
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第3回海燕オフ報告書その2「ゼロ年代の物語における「契約」」

 さて、このオフ、なんせ2日間朝から晩まで起きている時間はずっと話をしていたわけで、グイン・サーガ以外にもいろんな話題がありました。
その中でほぼ全員が参加して語り合われた話題が「ゼロ年代の物語における「契約」について」の話題ですね。実に興味深い話題でした。
 いずみのさん、海燕さんが既にそれぞれブログできちんとまとめていらっしゃいますので、個人的な感想を少しだけ書こう、と思います。
 90年代中期以降、インターネットの普及により、並行して存在する多くの価値観に触れる機会が急速に増えました。
 また、同時に、ネットには、あらゆる情報があふれています。その中でいかに生きていくべきか、ということは現在、いわゆるゼロ年代における重要な課題であると実感しています。
 「新世紀エヴァンゲリオン」で、碇シンジは、TV版のほぼ全編を通して迷い続けます。 彼は父、ゲンドウに、エヴァ初号機に乗れ、と命令される。しかし、同時に、「でなければ帰れ」とも言われるわけです。厳密には、完全なる強制ではなく選択肢が与えられているわけですね。
 実際にシンジはこの後、何度も逃亡を繰り返す。彼に、絶対的な強制力が敢えて化せられなかった結果、自分で自分に行動の責任を取らなければならなくなった。しかし、自分で自分の行動を決定する絶対的な理由を見つけることは困難なんですよね。だから迷う。そしてシンジ君は、最後まで答えに到達することが出来なかった。

 さらに以前の作品だったら、シンプルに父の命令を受け入れるか、その命令に対応したアンチ命令的な行動理念を獲得して、ストーリーは進んでいったのではないか、と思う。

 ただ、エヴァではキャラクターの内面を詳細に描こうとしていました。そういう作劇方法もあって、前述のようなシンプルな結果にはならなかった。シンジは葛藤するが、それ故に結論に至ることはなかったわけです。

 エヴァにおけるシンジがそういう描かれ方をしたその背景に、前に述べたネット普及による影響はあると思うのです。

 膨大な情報、互いに相反するがいずれも説得力のある言説、理論、価値観。似通っているが微妙に異なる言説、理論、価値観。その存在に触れた上で、自説こそが正しいのだという確信を持って行動することが、困難になってきている、そういう面の現れではなかったか、と思います。

 エヴァでシンジ君は最後まで信じられる理論には到達できなかった。TV版のラストでは「僕はここにいてもいいんだ」という結論には到達したが、形而下の事象として、彼が何を為し得たかは提示されないままであった。
 劇場版のラストでも、最後に残った自分以外の個としての人間、アスカの首を絞めようとして終わる。そこに建設的なものは提示されなかった。

 だからこそ、現代の物語において、主人公が行動を起こすためには、まず決断ありきなのだ、というのは解りやすい流れだと思いました。

「DEATH NOTE」の八神月は、人の死を操ることの出来るデスノートを手に入れて、ほとんど葛藤なしに、その力を行使します。そのダイナミズムがこの作品の最大の魅力の一つとなっています。凶悪犯罪者を殺していくことにより、犯罪抑止に繋げ、より平和な世界を創り上げていく。手段が「殺人」であるだけに、月の行動理念は決して全面的に肯定出来るものではありません。少なくとも刑法では殺人罪の構成要件に該当する可能性が非常に高い行為であると言える。
 にも関わらず、八神月はデスノートによる殺人である「裁き」に対してその是非に対する葛藤をほとんど行わないのです。1巻の最初の頃を除いて、月は「裁き」に対して最善の行為だと確信しきっているように見える。

 あらゆる価値観の並列化、可視化による擬似的な相対化により、一意な自己の行動理念の設定がより困難になった現代に置いて、それを成すには、割り切った「決断」が必要である。「DEATH NOTE」の八神月というキャラの描かれ方から、そういったメッセージを読み取ることは可能であろう。

 そういった現代、いわゆるゼロ年代の状況に置いて、有効な作劇手段として「契約」という概念が重視される、ということもわかりやすい。
 
 オフの会話の中で出てきた話ですが、
 前提として、物語の中であるキャラクターが行動を起こすためには一般的に「目的」と「その目的を成すための手段(能力)」が必要となる。
 その必要条件である「目的」あるいは「手段」、またはその両方を持たず、行動を起こすに至っていないキャラに対して、「契約」はそれを強制的に与えることの出来るファクターになるわけです。

「Fate Stay Night」の士郎とセイバーの契約は「正義の味方を継ぎたい」という「目的」を持った士郎に「マスターとしてセイバーを使役し聖杯戦争に参加する」という手段を与えることにより、今まで学園に埋没していた士郎を戦いの表舞台へ立たせるわけです。

「コードギアス 反逆のルルーシュ」に置いても、「世界を変えたい」という「目的」を持ったルルーシュにC.C.が「絶対遵守の能力であるギアス」という「手段」を与えることにより、変えられぬ運命、日常に厭いていたルルーシュが、一人での世界への反逆を開始するわけです。

 設定としてコンパクトかつ必要十分に機能するわけですね。

 こういう「契約」パターンは、いわゆる「巻き込まれ型」の一類型と言えるでしょう。オフの際でも指摘されていましたが、このパターンの場合、必ず「再契約」の機会が付与されるのですよね。
 最初は訳が分からないうちに「契約」を結ばされるわけです。なぜならちょっとばかりその契約の是非を考えたとしても正解が出ない、という前提条件があるからです。
 だからこそ、最初の契約のまま、幾らかのイベントをこなす中で、状況の把握、あるいは精神的な成長、パートナーとの間の信頼の獲得などを経た上で、再度、契約の機会が与えられることによって、より能動的なドラマとしての外形を完成させるわけです。

 ルルーシュは皇帝シャルルとの戦いにおいて、C.C.が記憶を失うことにより、彼女との契約を一旦無に帰されることになります。
 C.C.はルルーシュと共に在り、そして「自分自身として死ぬ」ことを望んでいた。だが、 彼女は全てを忘れ、幼い少女に戻ってしまう。
 しかし、ルルーシュは記憶を失ったC.C.をその傍らに置き続けます。
 以前のルルーシュであれば、自分に取って役立たずになったC.C.など切り捨ててもおかしくはなかったと思います。しかし、ルルーシュはそうしなかった。「運命をともにする」という契約をむしろ彼から再提示までするわけです。そこには、「独りではなくなった」ルルーシュの成長と、再び記憶を取り戻すはずだというC.C.への信頼が生まれていることが見て取れます。

 まさに、「契約・再契約」のファクターが十分に機能した例だと言えるでしょう。

 私も、今書いている話で契約・再契約のパターンを採用しようとしています。一度は没にしようとしたのですが、作劇上の段取りをかなりの部分、圧縮できるのですよね、これを採用すると。その有効性を肌で実感しています。
 
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第3回海燕オフ報告書(その1)

9/20に海燕さん関連のオフ(第3回)が東京であったので参加して来ました。

参加者は海燕さん、ペトロニウスさん、sさん、平和さん、烏蛇さん、いずみのさん、からすとうさぎさん、私こと「かんでたくま」、計8人。

 南総里見八犬伝ではないですが、八犬士勢揃いみたいで圧巻でしたです。皆さん博識で、それぞれ独自の世界を持っておられていろんなお話が出来て面白かったです。

 ちなみに海燕オフに3回連続で参加したのは海燕さんを除けば、私だけということらしいです。

 よっぽどファンなんだなと再認識。

 さて、その内容ですが、まず外せないのは「グイン・サーガ」の話題ですね。新宿の落ち着いた雰囲気の喫茶店で、海燕さん、ペトロニウスさん、私、sさんの4人テーブルで行われたのですが、sさんはグインを未読。おかげで3人だけで突っ走ってしまいました。

 海燕さんもペトロニウスさんもおっしゃってましたけど、「グインの話がこんなに通じて共感できるのは初めてだ」 私も心からそう思いました。

 厳密に言えば、海燕さん、ペトロニウスさんのお二人がより近く、私は若干別の立場を取って話をしていたのですが、結論としては、その違いは些末なものだと感じました。

「グイン・サーガの世界は「ある」んですよ」

 ペトロニウスさんのこの言葉は衝撃的でした。

 そう、そうなんですよ。うなづくしかありませんでした。グイン・サーガの魅力の本質はまさにそこにあると思うのです。あの世界は本当にある。そう感じる、とかではなくて、ただ事実として「存在する」のです。

 中学生の頃、グイン・サーガを読み始めた頃の僕は少なくともその感覚を実感していた。その後、約10年間に渡って。

 それは、他で得ることのなかなか出来ない感覚でもあった。そして、私はやがて、その世界に接続することが出来なくなった。それはリテラシーの問題であり、栗本薫さんのサイトを直視してしまったトラウマのせいでもあり、現実世界で私が経験したショックのせいでもあると思う。そして勿論、文体の変化、「短期的な」主題の変化もあった。

 私はグインを読んでも以前のように評価できなくなってしまった。私はそれが辛くて読むのをやめてしまったのですよね。

 海燕さんにも以前グインの小部屋で指摘されたことがあったと思います。今回も話題にでましたが、グインが後半エンターテインメント性に欠けることを持って非難することは、見当違いである、という話。世界を写し取る、というのがグインサーガの主題であるのだから、という話。

 今回、ペトロニウスさんと海燕さんのお話を聞いていて、私は自分の立ち位置が明確に解ったような気がしています

 私は別にエンターテインメント性に欠けるからグイン・サーガの後半を積極的に非難しているわけではないのです。むしろ、そういう立場に対して批判的です。

 私はただ、自分がグインの世界に常時接続できなくなったことに対して絶望していたのです。

 そして、海燕さん、ペトロニウスさんはお二人とも、今もなお、常時接続状態を保っていらっしゃるのですよね。本当に羨ましい、です。

 ペトロニウスさんは「信仰だから、仕方ないでしょう。少しばかり欠点が見えたって、気になるわけないじゃないですか」と仰っていました。

 私も、かつては栗本薫さんを信仰していた、そのことを思い出しました。

 崇拝と呼ぶのが正しいような感覚。

 それを持っていたからこそ、無くしてしまった自分が辛くて、読むのをやめてしまったのですよね。グインは5冊ほど貸し出し用のを買って友人等へ貸し出ししまくってましたので、まぁ私も布教していたようなものだったのですよね。

 だのに、グインの本質をきっちりと受け入れることは出来なかった。

 ゲーム「SWAN SONG」で新興宗教の教祖たる乃木妙子が、自分が信じて教徒に対して説いていた教義が実は何の根拠も無かったこと、自分が何も知らない小娘だったことを母に暴露され、子供のように泣き叫び、嘘と知りながらさらに教徒を先導し続けようともがく苛烈なシーンがあるのですけど、まさに私もそういう心理状況だったわけです。

 栗本薫さんは神ではなかった。それでも、グイン・サーガという作品は確かにWORK、神のつくりし物だった。

 そのことを思い出すことが出来たのは物凄い快感でした。そう、まさに、妙子が、幼き日に、本棚に囲まれた暗い部屋の中で包まれた、あの輝きを思い出したように。

 私はグインに絶望を感じた後、エヴァに世界を感じ、また突き放され、そして「AIR」にて再び世界と一体化する快感を得て、救われることになるのですが、またそれは別の話になりますね(その経緯は以前に書かせていただきましたし)

 そんなこんなで3時間ほど延々とグインについて話しました。

 楽しかったです。

 で、それ以外にもいろいろと話をしたわけですが、次回へつづく、ということにします。
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ヒビキのマホウ(1)

評価:
依澄 れい,麻枝 准
角川書店
¥ 588
(2005-08-10)
久々に更新してみるテスト。

ヒビキのマホウ、表紙買いして1年以上積んだままになってた漫画ですが、ようやく読みました。

原作:麻枝准に漫画:依澄れい、という少し以前からのKeyファンからすれば、ちょっとびっくりする作者コンビです。
 それに1年以上経ってから気付いた自分にもびっくりです。
 内容的には、まぁKeyでした。ちょっと以前のKeyという感じ。
 心の奥底(だけ?)を揺さぶってくれる作品ではあります。
 まだ、麻枝さん、こういうのも書いてくれるのかぁ、と思ったら、学生時代に描いた小説が元になっている、というコメントを見て少し寂しくなりました。

 やっぱりこれは過去のものであって、現在(いま)のものではなかったのか、と。

 まぁ、「AIR」とかまで極めたものを書いてしまうと、もう、そっちの方を書こうという気が起こらなくなるのも、分かりすぎるぐらい分かるんですけどね。

 この世界の「マホウ」は少し面白かった。マホウの成就に対して対価が必要、という点で、決して万能でないものとして描かれている辺りは「鋼の錬金術師」の等価交換を思い出すのですけども、マホウの場合は決してそれが「等価」の交換ではないのですよね。
 代償として、比べものにならないほど大事なものを取り上げられることが往々にしてある。
 そこにほぼ常に悲劇が生まれるのですが、それでも読後感が決して悪くないのは評価できます。

 例えば、作中でマホウを兵器転用するためのプロセスとしてホムンクルスが生成されたりします。このホムンクルスは、無から銃器を生み出す能力を持っています。Fateで言えば魔法クラスのことをやってのけるわけですが、その能力を使うごとに「自分が存在する力」自体を失っていき、やがて無へと消えるのです。 
 彼女、(このホムンクルスは幼い少女の外見をしています)、はそれでもマスターを守ろうとする。それも命令ではなく、自らの意志で。

 「北風と太陽」の太陽のような作品。優しいだけの作品ではない。だからこそ、その優しさが際だつんだと思います。
 


漫画 | permalink | comments(0) | trackbacks(18)

CLANNAD第18話「逆転の秘策」感想

当たり前の話。
 ノベルゲームとTVアニメは別のメディアである。
 だからこそゲームのアニメ化の際には脚本のアレンジが必要である。
 大胆な動き、より多くのカメラワークという要素が入る分、元の脚本そのままでは同様のニュアンスを伝えることができないからだ。

 だからこそ、アニメ化の際には作品(特に脚本)に制作者の意図が大きく反映される。
 アニメはゲームより、ヴィジュアル面において視聴する側の解釈の幅が小さく固定される。だからゲームにおけるシナリオのニュアンスの解釈の一つとして、アニメ制作者の解釈が提示されるものだ、と言える。

 京アニによるKey作品(ゲーム)のアニメ化が一定の評価を受けているのは、ゲームプレイヤーの解釈として最大公約数に当たるニュアンスをほぼ過たず再現してみせるからだと考えられる。

 だからこそ、ゲームをプレイした時に、人並みの解釈のみをしていたキャラクターについては、アニメ化された際に非常にしっかりとリファインされている印象が起きてくるわけである。

 今回の杏の涙の演出は非常にしっかりしていてよかった。
 ゲームの際の杏の涙は、過剰な演出に設定、シナリオが負けていて、感情移入しずらい面がありました。

 そう。杏という女の子が涙を見せるんだったら、今回のような状況の方がしっくりとくるんですよね。

 テニスボールが当たって倒れた渚にテニス部員がさしのべた手を、朋也が遮った。普段の朋也にはない剣幕を見せた。

保健室へ渚を連れて行く朋也を見やり、立ちつくす杏。

 そして、椋がぽつりと言った。

 「おねえちゃん、今まで、ごめんね」

 杏は椋を見つめ、そして、眼をそらし、涙を流した。

 自分がヒロインになれない、と自覚した瞬間、杏は自分がヒロインになりたいと心のどこかで願っていたことに気付いてしまった。
 そして、椋がそれをずっと知っていたことに気付いてしまった。

 だからこそ、ほとばしる想いが、涙あふれて止まらなかったのだ。
 ごく自然に流れる涙。それをこらえようともしなかった彼女は確かに杏だった。

 恋愛に対して不器用であるからこその、この杏の涙には心を打たれました。

 同時に椋の方は、姉に対する感謝というニュアンスが見せた涙に含まれて、性格と立場の違いがきっちり表現されていたな、と思いました。


 さらに智代は泣くことはせず、ただ、空を見上げていた。
 これも、いかにも智代らしくてうまいと思いました。
 このカットの少し手前で、渚と朋也の関係を悟るところがあったんですけど、智代は絶対に恋愛で自分を前面に出そうとしないタイプなんですよね。ある意味、人間としてより完成されているのですけども、自分主導で恋愛は出来ない人ですよね。

 あれ……ことみは?

 そう。ここで、他の人間と違って、ことみは朋也と渚の関係について

 「全く気付いていない(爆)」という演出なんですよね。

 いや、それは違うだろ、と言いたい。朋也についてはことみはかなりセンシティブであるはずだよ。
 下手すりゃもう一度倒れるくらいのショックがあっても不思議じゃないぐらいだと思うのですが……。

 そこは、制作者と私とで思い切り解釈が食い違っているようですね。トホホです。


 今回、停学中の朋也に料理をつくって持ってくることみは、いかにもことみで逆にせつなかった。空気を読まずに、前の晩から下ごしらえをしてがんばってつくったことを主張するあたりが、いかにもことみらしい反応でかわいかった。かわいかったんだけどなぁ……。
 
 はぁ……(溜息)。

アニメ | permalink | comments(2) | trackbacks(32)

CLANNAD17話見ました。

あいかわらずきっちりとつくってある。
きっとCLANNADファンにはバカ受けと見ました。

 ここんとこしばらく渚がメインで智代と双子が絡むという形でしたが、渚が退場(汗)したので今回は智代と双子(というか杏w)が持ち味を発揮していた感じ。

 これはこれで悪くはないのですが、全然Keyっぽくないっすよね(爆)
 原作のことみとかとは全く違うスタンス。

 何が違うんだろう。なんというか、余裕があるというか。とりあえず普通に生きていけてしまう、というか。

 まぁ、アニメのことみもそうだったので、そこがショックだったりもしたのですけど(原作だといろんな要素の積み重ねにより、非常に低い確率を越えて一歩を踏み出せた、という感じだった)
 杏や智代は元々かなりしっかりしてるので違和感ないっすね。

 予告を見る限り、次は智代の番らしい。智代は嫌いじゃない。割と好きな方なので、アニメでどういう感じで演出されるのかはちょっと興味をそそられています。
 原作はあっさりしてたなぁ、という感が強かったですが、京アニはどうなんだろう。
 正直ネタとしてはちょっと弱いと思うのですよね。智代のシナリオ。破綻はないんですけども。まぁ、普通、作品とはそういうものなんでしょう。破綻してたら非難されますよね。ただ、私は、読者として自分の頭の中で作品を再構築して楽しむ部分があるので、少しばかり破綻しようがそれほど気にならない、というのはあります。むしろ少しばかり破綻してくれた方が消化し甲斐があるというかw。


 さて、一方、杏については元々無関心だったので、アニメ化の評価がマイナスになることはないでしょう。彼女は普通にその辺にいるちょっと器用な女の子(ただし恋愛にだけ不器用)という感じ。腕力がずば抜けてたり、ペットがウリボウだったりするけれど、現実にいそうな性格設定だと思います。
 京アニの製作姿勢の「きっちりとした」部分がおそらく彼女の描写にはプラスに働くんじゃないかな、と思います。
 地味にきれいにまとまるんじゃないかな。
 ことみについては、その「きっちりとした姿勢」が仇(あだ)になったと思うのですけどね。(まだ、ちょっと悔しい(泣))

 杏も椋もH2Oみたいにアニメの世界にしか存在しないような存在ではない。智代も性格的にみればいても不思議じゃないでしょうね。
 そういう意味でリアリティがあるんですけども、でもわざわざアニメ(やゲーム)としてつくるんだったら、アニメ(ゲーム)でしか存在できないようなキャラクターと遭遇してみたいな、と思います。
 CLANNADで言えばことみみたいな子。でも、アニメの彼女はだいぶまともに矯正されてたのですよね。その調整は必要あったのかなぁ、といまだに思います。
 一部悲劇な部分も残してもよかったと思うのですよ。ことみが智也をあきらめきれない、という悲劇があってもよかったと思う。
 ことみはことみであって欲しかった。
 
 結局そこが納得できてないんだなぁ。

アニメ | permalink | comments(0) | trackbacks(9)

見て得した気になれる釣り画像(ただし一部の人のみ)

見て得した気になる釣り画像というものがあって、
最近釣り画像っぽいのはクリックするようにしています。
サムネのイメージどおりだと逆にがっかりする(爆)

これなんかも、嫌いな人は嫌いなんでしょうけど、
私はこの戦慄するような旋律は好きだな。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1894878

あ、一応書いておきますけど、決して気持ちいいものではないですよ。
雑談 | permalink | comments(0) | trackbacks(7)

CLANNAD第13話「想い出の庭を」

……ずっと憶えていたの

おにわに迷い込んできた男の子……

わたし、その男の子のこと、ずっと、ずっとすきだったの……

わたしの、たったひとりの友達だったから……

だから……

ずっと待ってたの……



何も言葉にしたくない。
僕に語るべきことばはないから。
何を書いても、この想いに追いつく言葉はないから。

ただ。


すきだったんだよ、ぼくは。

きみのこと。

嘘でもなんでもない。

でも、こうやって書き綴るだけで不安になる。

僕は、そう思いこみたいと願っているだけなのだろうか。

痛い。身体のなかが痛い。

痛い。

その庭を蝶が飛んでいた。

春にはモンシロチョウ、シジミにキタテハ

そして夏にかけて、大きなきいろいアゲハ、クロアゲハ

ぼくらは同じものを見て、同じ美しさにひかれていた。

車のとおる道とは逆にあった、静かな庭に

僕らは佇んでいた。

遠い記憶。

ただ、生きているだけでしあわせ、だった、

ぼくたちは。


今、ぼくは幸せだと思う。

でもね、あの時のしあわせと、今の幸せって、

全然意味が違う。

ぜんぜんちがうんだ。
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あけましておめでとうございます



あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします。

 ちなみに年賀CGの女の子は、「遠回りする雛」収録の「あきましておめでとう」の千反田さんのイメージです。(イメージ崩れたらごめんなさい)
 年末年始メインPCが故障しっぱなしなのでやっつけ仕事になってしまいましたが、とりあえずアップしておきます。
 いずれディティールアップするつもり。




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CLANNAD第12話「かくされた世界」感想



12話の感想、MIXIにだけ上げて忘れてました。

うわ、展開早すぎ……ひょっとしたら次回でことみ編終わりか?終わりなのか?


デートがでーとでなくなってるw

ここ曲がる〜は京アニでも動画再現は無理だったか?

と、いろいろ書きましたが、

今回、たぶんことみファンが倍増したんじゃないでしょうか。

原作ことみ派の私としては勿論物足りなさは多いのだけれど、

ことみの魅力がかなり凝縮された回だったと思います。

あのシーン、あのタイミングでアイキャッチを挟む演出には不満もありますが、シーンのニュアンスは9割方再現されていたんじゃないでしょうか。

惜しむらくは尺の短さ、ですね。

すげ〜勿体ないっす。

風子登場のシーンとか完全オリジナルの部分はさすがなんですけどね。
さりげなく先のネタバレして去って行った彼女はかわいかった(爆)

でも、やっぱ勿体ないっすよ。

原作時のあの事件後のあの絶望感がスルーされたのはどうかと思いますよ。



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