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漫画とかアニメとか、たまにスポーツのこととかについての日記(多分)
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「AIR」二次創作「うつせみのうた。」(前編)

これは以前に私が書いた「AIR」の二次創作です。
TVアニメ「AIR」の放送に合わせてブログに掲載してみました。
ネタバレは多いですが、よろしかったら読んでみてください。
それでは。


Alt-air(アルタイル)第一回供給作品
うつせみのうた。




それは思い出。
飽きるともなく溢れ出す思い出。

それは歌。蝉たちのうた。

心に染みとおる、なにものかのうた。

これはそんな物語……。




夏。
海。
砂浜。
その片隅の茂みの中。

どこかで蝉が鳴いていた。
澄んだ大気にしんしんと染み渡る蝉の声の中、ひとり佇む少女を少年は見つけた。

転がった岩に腰を下ろした少女。その周囲には大きな蝶が幾匹も舞い降りている。
そして彼女の麦藁帽子の上に蝉が数匹留まっていた。


蝉の声がやけに耳に付く。
少年の頭の中にじわりと鈍く響いている。

少女の方も少年の方に気付いたとみえて、視線をゆっくりとそちらへ向けた。

カブトムシをとりに来たの?
少女が訊ねる、

いやクワガタ。ノコギリが居たらいい、と思って。
少年が答える。

ノコギリ…?
ノコギリクワガタだよ。
ああ。
カブトムシ好き?
僕はクワガタの方が好きなんだ。
…?
よくいうじゃないか、カブトムシは虫の王様だって。
最強だって。
うん。
でもさ、やりようによっては、クワガタだってカブトを倒せると思うんだ。
…そうかもね。
僕はクワガタが好きなんだ。王様だと思ってる。
…私も…
…?
私もクワガタさんは好きよ。
コクワガタさん、可愛い。
ツヤツヤできれいな黒…。

コクワか、ふぅん。

でもね。私はセミさんが好き。

セミ…?
どうして?全然強くないし、すぐ死んじゃうし…。
ミンミン鳴いて五月蠅いだけじゃないの?

セミさんは子供のときは土の中でずっとずっと暮らすから…。
大人になって、やっと外に出られて、嬉しいからなくのよ。
「ボクはここにいるよ。」って。

その…、と少年は指さす。
そのセミはなかないんだね。
少女も自分の帽子の上を指さして見せる。
この子達?
この子達は女の子だから…。
女の子のセミはなかないのよ。

…そうなの?

なくのは男の子だけなのよ。
女の子は呼ばれるのをじっと待っているの。
この子達もそう。
もうすぐ夕暮れ。
ヒグラシさん達が呼び始める頃。
そしたら、この子達もいっちゃうけど。
それまで一緒に待ってるの。

やがて、どこか悲しげなヒグラシの声が聞こえ始める。

…ほら。

女の子の麦藁帽子の上の蝉が、一匹、また一匹と飛び立っていく。

へぇ、すごいや。

蝶たちも気が付くと全ていなくなっていた。

少女はゆっくりと立ち上がる。
さあ、そろそろ帰らなくちゃ。ママにしかられちゃう。

ああ。

強いクワガタさん、見つかるといいね。えと。

たかしだよ。

たかしくんね。わたしは……。

「さいかぁ!!」
遠くで声がする。

ママだ。いかなくちゃ。じゃ。

あ、うん。

片手を帽子にやり、ちょこちょこと小走りに少女はその場を後にした。

少年はその後ろ姿を、見えなくなるまでずっと見送っていた。

それから数日。
二人は同じように逢い、同じ時を過ごし、同じように別れる。
それを毎日繰り返した。


そして数日を経た、ある日。
その日もやはり、同じ場所に女の子がいた。
彼女は草むらにしゃがみ込んで膝の上のスカートに顔を伏せていた。
少年はあることに気が付いた。
今日はいつもと違い、彼女の帽子に蝉は留まっていなかったのだ。
それは少女と出逢ってから初めてのことだった。
別におかしなことではないはずだ。
だけど、少年は何か違和感を覚えた。

女の子が顔を上げた。
その瞳に涙が滲んであふれていた。

少年はどうしていいかわからず、その場に立ち尽くした。
やがて、少女がささやきかけた。
「あなたは知ってる?」
「……?」
「ここじゃない、どこかを。」
「……。」
少女はゆっくりと立ち上がった。
「お願い。連れて行ってほしいの…。ここじゃない何処かへ…。」
その言葉を、どう受け止めていいか、少年は戸惑った。
少年は少し考えて、それから呟いた。
「…じゃ、ついて来る?」
少女は小さく頷いた。
バス道の端っこをゆっくり歩く。
道は緩やかにカーブを描いて続いていた。
やがて、前方に見えてきたのは堤防。
白いコンクリートが夕陽の色をそのまま映していた。

堤防の上に登る少年。
少女もゆっくりとその後に続く。

少年が腰を下ろす。
少女もおずおずとその横にしゃがみこむ。
太陽が水平線の彼方へとゆっくりと沈んでいこうとしていた。
まぶしい光が雲をかいくぐり、二人の目に飛び込んでくる。
「夕陽。ここから見るの、好きなんだ。」
「…。」
「ここ、気に入ってるんだ。」
「…。」
「…ここじゃ、だめかな?」
横の少女を見やって少年は驚いた。
彼女の瞳は再び大粒の涙を浮かべていた。
そして少女はそれを拭おうともせず、
じっと彼方を見つめていた。
やがて、一言だけ、呟いた。

「あの向こうには、何があるんだろ…。」

「……。」

二人はそのまま、しばらく夕陽が沈む水平線を見つめ続けた。

やがて、少女は立ち上がる。
俯いてスカートの埃を払う。
「…帰らなきゃ。」

「…うん。」

「じゃ。」

少女は一人堤防を降りると、振り返って少年を見上げた。

そして、初めて笑顔を見せた。

とびきり綺麗な笑顔が少年の目に焼き付けられた。

「……。」

少年はただ、茫然とそれにみとれていた。

やがて、手を振りながら、少女は去っていった。

我に返って少年は脇にかかえた虫かごに視線をおとした。
コクワガタが中で、少年と同じくじっとしていた。
彼女に見せるはずだったコクワガタ。
そして…。

そして、時は穏やかに流れた。

その後、少年が何度も足を運んだその場所に少女の姿は二度と見ることはなかった。

やがて、7年の歳月を経る。

少年は中学生になっていた。

「おい。河原崎。日直だろ。地図持って来てくれんか?」
「…はい。」
社会科担当の教師に頼まれ、返事を返し、立ち上がる。
社会科準備室は確か、去年の教室の隣りにあった。
それを思い出して階段を下りる。
布製の大地図を両手でかかえる。
別のクラスで最近使ったからなのだろう。
古ぼけた地図はちっともほこりっぽくはなかった。
準備室から出る。
去年よく通った廊下。
なんとなくなつかしげに思い、少年は立ち止まった。

そして…。
少年は、みつけた。

「彼女」はそこにいた。

前からゆっくりと歩いてくる彼女。
蝉達と共に夕暮れを待っていた少女。

髪が少し伸びただろうか。
7年前にくらべ背はかなり伸びていた。
だが、どこまでもか細い体つき。
あのときの面影はそのまま残っていた。
何か物憂げで儚げな物腰。
うつむき加減の眼差し。

胸の名札に目をやる。碧色は一年生だ。
「志野 彩佳」
…しの さいか…

(確かにあの子だ。)

「さいかぁ。」
幼き日に聞いた、少女を呼ぶ声が静かに甦る。

二人はそのまますれ違う。
少女は少年を気にする様子は全くない。
少年はすれ違った後、振り返り、束の間、密かに少女の後ろ姿を見送った。

チャイムが鳴る。
「…やべ…。」
少年は重い地図を肩に担ぎ直すと、走って自分の教室へと向かった。

2年3組。
彼の教室。
「河原崎、遅いぞ。」
社会の先生の声がかかる。
「すんません。」
ぺこりと頭をさげると、地図を渡して席に着く。
「おい、隆史。」
横の席の少年が声をかけてくる。
「お前が遅れるなんて珍しいな。何かあったのか。」
隆史は一瞬、彩佳の顔を思い浮かべた。
「いや、別に…」
適当にそう答えながら…。

その日の放課後。
校庭でボールを蹴る隆史。
サッカー部の部活だ。
二人ずつ向き合って対人パスをこなしている。
だが、今日に限って隆史のパスは微妙に左右によれていた。
「おい、隆史。」
「なんだよ、一樹。」
パス交換の相手、武田一樹は胸でトラップしたボールを足の下でとめて、
隆史を睨みつけた。
「お前、今日はおかしいぞ?」
眼をそらす隆史。
「そうかい?」
ぶっきらぼうに答える。
横で笑い声がする。
「ま、誰だって調子悪いときはありますよね。河原崎さん。」
そちらを見やる。
女の子が笑っている。
この間入部したばかりの1年のマネージャーだった。
名前は確か…。

「おい、志野。組み合わせ抽選は済んだのか?」
一樹が呼びかける。
志野。し…の…?

もう一度女の子の顔を見やる。
にこやかに笑う女の子。
頭の両側でそれぞれ髪をまとめた女の子。
勿論廊下のあの子ではない。
ジャージの胸の名札には、
「志野 舞夏」とあった。

「ええ、今度の大会、組み合わせには恵まれましたよ。緒戦は滝澤二中。」
「タキニ…!?優勝候補筆頭じゃねぇか。こりゃ今年は一回戦負けかよ。」
「あちゃぁ〜。」
「マジかよ…。」
そこかしこでサッカー部員達の嘆きの声が上がる。

その中で隆史は一人黙りこんでいた。
志野…。

「志野さん…。」
部活が終わり、グランド整備の途中。
隆史は彼女に話しかけてみた。
「…なんですか?河原崎さん。」
「志野って、君のとこの近所じゃ多い名字なの…?」
「え? いえ、あんまり聞きませんけど?」
「そうなの? でも、君の学年に、他にも志野って子がいたと思うけど?」
「そうでしたっけ?」
ちょっと口元に手をやって考える少女。
「ああそっか。ひょっとして…。それはきっと私の姉ですよ。」
「同じ学年で?」
「ええ、私達双子ですから。」

「…そう、なんだ。」
言われてよく見てみれば確かに顔立ちは似ているかもしれない。
いや、非常によく似ていた。
表情や物腰が余りに違うので気付かなかっただけなんだ、と隆史は納得した。

「…でも、河原崎さん?」
「何…?」
「どうして姉のこと知ってらっしゃるんですか?」
「え、その、今日、廊下で見かけたから。」
「え…!?」
驚いた表情を見せる舞夏に、隆史も戸惑った。
「…来てたんだ、おねえ。」
小さく独りごちる少女。
ぼんやりと虚空を見上げる。
「…志野さん?」
呼びかけられて振り向いた彼女は、
もう既に、以前の笑顔に戻っていた。

「さぁ、さっさと片づけちゃいましょうか。」
「ああ。」

それから後は、結局二人とも言葉を交わさぬまま、この日の部活は終わった。

サッカー部の部活。
11人ぎりぎりのサッカー部。
補欠はなし。全員がレギュラーだった。

「目指せ全国優勝!!」
部室の壁の張り紙。
それが隆史と一樹の合い言葉だった。
二人は小学校のときからサッカー部でコンビを組んでいた。
6年のときは地区大会で優勝し、県大会にコマを進めたこともあった。
中学でも二人は一年からレギュラーを取った。
選抜合宿にも選ばれて参加した。
だが、チームは弱かった。
先輩に経験者はなし。
顧問の教師もサッカー未経験で、部活にはあまり顔を出さなかった。

二人は二年になった。
経験者の新入生も入部し、頭数はなんとか揃った。

今年、そして来年が勝負の年だ。
帰宅してからも、隆史は毎日自主トレに励んでいた。
いつものようにボールを持ってすぐに出かけようとする。

勢いよく開けた玄関の扉。
その向こうに男が立っていた。
恰幅の良い身体つき。
忘れ得ぬその顔。
「隆史。」
耳に付く低い声。

「珍しく早いんだね、父さん。」

「また、球蹴りか。」
顔を合わせるたびに同じ言葉を繰り返す父。
「そんなものが将来何の役にも立たないと、わからんわけではあるまいに。」
同じ言葉を……。
「お前のために言っているんだぞ。」
隆史は目を逸らすと、無言で父の横を通り過ぎる。
「この出来損ないが…。」
父の呟きが背後で風に消える。

父の論理は常に明確で、ステロタイプで、そして隆史にとって無意味なものだった。
隆史はそれに反抗しているつもりは毛頭ない。
ただ、それが自分にとって意味をなさないというだけのことだ。

だけどサッカーには意味があった。
そこには仲間がいた。
得点を決め、パスを出す。
タックルでボールを奪い取る。
一つ一つが決まるたび、チームメートは隆史を認めてくれた。
自分を認めてくれた。
失敗しても励ましてくれた。
期待に応えるため、隆史は練習を重ねた。
いつしか、彼はチームの中で「エース」と呼ばれるようになっていた。

将来もずっとサッカーをしていけたらどんなに楽しいだろう。
仲間達と一緒に。
ずっと。

そのためにも、自分の出来る限り練習する。
より強い、より高い技術を求めて。

自分を追い込むことによって、やっと寂しさを紛らわすことが出来た。
一人の寂しさ。それを紛らわせること。

それが中学二年になった少年、隆史の今現在の真実。

それが全てだった。


夕闇がせまる海岸。

砂浜をドリブルする。
サッカーに必要な足腰の強さを身につけるにはもってこいの場所だ。
防波堤の壁に向けてのシュート練習。
壁と平行に走りながら壁パスの練習。

いつもと同じ。
いつもの練習。

しかし、今日は違っていた。
コンクリートの壁が途切れた向こう側。
ボールが転々とするのにも気付かず、
少年は立ちつくし、それを見つめていた。

少女が立っていた。
真っ白いワンピース。
そのフレアスカートの裾が風に揺らめいていた。
キタテハとクロアゲハがひらひらと彼女の周囲を舞っている。

彼女の視線が隆史を捉える。

しばらく間をおいて、少女はぺこり、と会釈してみせた。

隆史もつられて会釈を返す。

少し俯いた後、少年は呼びかける。
「あの…。」
そして、ゆっくりと歩み寄る。
「…なんでしょうか?」

「…以前、ここで会ったことないですか?」
おずおずと、訊ねてみる。

「…?」
口元に手をやって小首を傾げる少女。
そして、ややあって
ぽん、と手を叩いてみせる。

「ひょっとして…クワガタさんを探してた…。」
やはりそうだった。
彼女はあの少女だった。
「やっぱり…。」
「あ、そうなんですね。お久しぶりですねぇ。」
少女の口元が微かにほころんだ。

「強いクワガタさんは見つかりましたか?」
「いや…、それは見つからなかった。」
「そうですか、それは残念ですね。」
彼女は本当に残念そうに溜息をついてみせた。

「あ。」
「…?」
「ねえ、君、もう少しだけ、ここに居られる?」
「…少しなら。」
「ごめん、ちょっと待っててね。」
少年は駆けだした。
バス道を東へ東へ。
武田商店の前を通り過ぎる。
しばらくして左手に曲がる。
「河原崎」の表札。
重い戸を勢いよく開け、二階へ駆け上がる。
「隆史、帰ったの!?」
階下から少年の母の声がした。
が、今はそれどころではない。
堆肥を盛って椚の木片を配置した水槽。
その中からなにやら取り出すと、虫籠に入れて、
次の瞬間、階段を駆け下りる。
「隆史、帰ったんなら、手、洗いなさい。ご飯出来て…」
「も一回出てくるから、後で!!」
言い捨てて少年は走り去った。
「もう。せっかくあんたの好きなラーメン作ってあげたのに…。」
母親の言葉はもう、隆史には届いてはいなかった。

少年は全力で走り、防波堤を飛び越えるようにして浜辺に戻ってきた。
だが、
少女の姿が見当たらない。

「嘘。」
隆史は肺の空気を一気に吐き出すと、その場にへたり込む。
「そりゃないよな。」
砂浜に仰向けに大の字に寝ころぶ。
と、その瞬間、視界の端に白いものが写った。
飛び起きる隆史。
白いワンピースだ。
少女は防波堤のコンクリートを背もたれにして腰掛けていた。
隆史が気が付いた、と見てか、小さく手を振っている。

砂を払ってゆっくり立ち上がると、隆史は彼女の元に向かう。

「お元気なんですね。」
少女は上の方を指さしてみせる。
「頭の上、飛び越えて行かれるんですもの。びっくりしました。」
「こっちもびっくりしたよ。君がもう帰っちゃったのか、と思って。」
「あ、すみません、ちょっと疲れたので…。」
確かに立ちっぱなしで待ってもいられないか。
隆史は納得した。
「そうだ、これ。」
虫籠を取り出す。
「…?」
「ほら。」
「あ。」
少年の手の平の上に小さなクワガタがいた。
「コクワガタさん。」
「うん…強いクワガタは見つからなかった。でもコクワは見つかったよ。」
「あの後すぐ見つけた奴は死んじゃったけどね、去年取ったのが冬越して元気にしてるんだ。こいつは五代目なんだ。」
「あ…、そうなんですか。」
再び微かに少女の口元がほころんだ。
「さわってもいいですか?」
「どうぞ。よかったらあげるよ。」
おずおずと差し出された手のひらの上にコクワガタがちんまりと載る。
「あ、ありがとうございます。」
光沢のある黒く薄い甲虫の背をゆっくりと少女は撫でた。
「…もういいよね。」
ポツリと少女が呟く。
「何が…?」
少年が聞き返す。
「コクワさん、行きたいって…。」
「…。」
「行かせてあげていいですか?」
「…うん。」
「じゃあ。ねぇ、行っていいって。」
少女はコクワガタに語りかける。
すると、しばらくして、
彼女の手のひらの中で、黒い小さな昆虫は静かに羽根を広げた。
少女はコクワガタをやんわりとほおり上げた。
コクワガタはゆっくりと飛んで行く。
やがて横手の茂みの奥へと消えた。
「あの子、あなたにお礼言ってましたよ。」
少女はそう言って少年の顔を見上げた。
なんとなく照れて、隆史は視線を外す。
「コクワって飛べるんだよな。なんかそんなことすっかり忘れてたけど。」
「虫さんは大概みんな飛べますよ?」
「そうだよね。」
「それに…」
「?」
「人だって飛べますよ。」
「え?」
「だって、ほら、さっき。あなた、飛んでらっしゃいました。」
上を指さす少女。
その真剣な表情に、隆史は思わず笑ってしまった。
「確かにそうだね。」
少女の横に腰を下ろす隆史。

「…でも、本当に久し振りだよね。」
「そうですね。」
「あの後、君はここへは来なかったの?」
「…そうですね。この場所自体、本当に久し振りです。」
静かに目を伏せる彩佳。

「彩佳ぁ〜!!」
「あ…。」
隆史が振り向くと、後ろに少女が立っていた。
急いで走ってきたらしく肩で息をしている。
「舞夏…。」
「もう。おねえったら、退院するなら、するって、どうして教えてくれないのよ。
 いきなりいなくなったって聞いてどれだけ心配したか。」
「あ…ごめんね。ちょっと…。」
「さ、帰りましょ。ん。」
舞夏はようやく、この場にいる三人目の人物が誰なのか気が付いたようだった。
「河原崎さん?」
「や、どうも…志野さん。」
なんと応えていいかわからず、あいまいな返事を返す。
舞夏は隆史を頭の先から爪先までじっくりと見返す。
「…さっき、たまたま会ったの。お知り合いだったの?」
彩佳が呟くように聞いた。
「中学の先輩よ。部活が一緒なの。」
「へぇ、そうだったんだぁ。」
偶然。そのことに彩佳はしきりに感動している様子だった。
「ごめんなさい、河原崎さん。私達、帰りますね。」
「…ああ。僕はもう少し練習してくから。」
「さよなら。」
「…失礼します。」
二人がぺこりとお辞儀した。
「じゃ。」

立ち去る途中、
彩佳は何度か振り返って、そして、
見えなくなる直前、立ち止まって小さく手を振った。
そして少年の視界から二人は消えた。

ずっとその後ろ姿を目で追っていた自分に気が付いて、
隆史は一つ大きく溜息をつくと、サッカーボールを頭上高く蹴り上げ、
ゆっくりとリフティングを始めた。

翌日…。
昼休み。
喧噪。
なんとなく一人になりたくて隆史は体育倉庫へと向かった。
折り重なったマットの上に寝転がって物思いに耽る。
今までも隆史は時々そうしていた。
が、今日は先客がいるようだった。
体育倉庫の前に女の子がいた。
サッカーボールを持っている。
舞夏だった。
少女はボールの表面をやんわりと撫でると、
ぎゅっと抱きしめた。
しばらくして、その手が離れる。
落ちたボールは彼女の足の甲で器用に蹴り上げられた。
2回、3回。
頭で、胸で。
ボールは地面に落ちることを忘れて宙に舞い続けた。
少女と一緒に、ワルツでも踊るように。
少女は笑っていた。
いつもと違う笑顔。
芯から晴れやかな笑顔。
いつも見ていた笑顔はなんだったのだろう。
隆史はつい声をかけることも忘れて少女のダンスに見とれていた。

永遠に続くかと思われた刻は終わり、
やがて、ボールが地面に落ちて転がった。
少女は踊りをやめていた。
その視線が隆史をとらえていた。
「河原崎さん。」
彼女の瞳は一瞬とまどいの色を見せ、
そして笑顔に戻った。
いつもの笑顔。
「どうかしましたか?」
「いや、ちょっとびっくりして…。志野さん、サッカー出来たんだ。」
「え、ああ、少しですけど。」
「小学校の時、やってたの?」
「ええ。親戚のお兄さんがサッカー好きで教えてもらったんです。」
「へぇ。凄いな。」
「凄くなんかないですよ。」
「いや、僕なんかよかよっぽどうまいよ。」
舞夏の頬がじわりと赤く染まった。
彼女のそんな表情は初めて見た、と隆史は思った。
「からかわないでくださいよ。…それに。」
「…?」
「二度とボールを蹴るつもりはなかったんです。」
「え…?」
「忘れないといけないから。」
「…。」
「今日は特別です。」
「…。」
「だってマネージャーがサッカー出来たってしょうがないでしょ。」
「志野さん…!?」
予鈴が鳴った。
「さあ、行きましょう。」
「…。」
「チャイム、鳴りましたよ?」

ボールをしまって、二人は昇降口へ向かった。
沈黙を続けたまま。

二人が昇降口に消えるまで、ずっと見つめていた視線があった。
二階の廊下の窓から注がれた視線。
二人はそれには気付かなかった。

放課後、部活が終わる。
隆史は黙々とグランド整備を行った。
昼休みのことがずっと頭にこびりついたままだったので、
舞夏とは気まずくて顔を合わせていられなかった。

「二度とボール蹴るつもりはなかったんです。」

何故…?

「忘れないといけないから。」

何故…?

「マネージャーがサッカー出来たってしょうがないでしょ。」

じゃあ、何故サッカー部に…?

彼女が話さない以上、きっとそれは聞いてはいけないことだ。
隆史はそう思った。
でもやはりどうしても気になった。
気になってしょうがない。
だから、整備作業をさっさと終わらせてこの場を逃げ去りたかった。

昼休みのことについて部活の間、舞夏は何も触れてこなかった。
彼女は元気で、そして笑っていた。
いつもの彼女だった。

でも、それだけに隆史には辛かった。
余計なことをしてしまったのかもしれない、と思った。

部活中結局最後まで練習に身が入らなかった、その分を取り返そうと、
その日帰宅してすぐに隆史は砂浜に向かった。

防波堤の上に白い影があった。
彩佳だった。
隆史の姿を見て少女は立ち上がりかけた。
と、その瞬間、強い風が麦藁帽子を吹き上げようとする。
両手で必死に押さえる彩佳。
結局またその場にぺたりとしゃがみこんでしまった。
「こ、こんにちは。」
微妙に声がうわずっている。
「こんにちは。」
笑みを浮かべながら隆史も挨拶を返す。
その時、隆史は彼女の右脇に何か大きい物が置かれているのに気付いた。
隆史の視線に気付いて彩佳がそれを胸に抱いた。
「…それ、何なの?」
「え〜と。ナマケモノさんです。」
どうやらそれは大きなナマケモノのぬいぐるみらしかった。
言われてみれば長い手足がそれっぽくも見えた。

「小さい時からずっと友達なんです。」
「へぇ。こんにちは、よろしく。」
隆史はしゃがんでぬいぐるみと握手した。
「わぁ。」
「?」
「よかった。」
「何が?」
「相思相愛。」
「誰が?」
「河原崎さんとナマケモノさん」
「…はぁ?」
「いい人みたいだね、ってナマケモノさんが言ってる。」
「へ、志野さん、ぬいぐるみの気持ちも分かるの?」
「ええ。お友達ですもの。ずっと励ましてもらってばっかりでしたけど。」
きっぱりと言い切られて、隆史はとっさに言葉を返すことが出来なかった。
「私はいっぱい、いっぱい助けてもらったから。」
「はい。」
顔の前に差し出されたナマケモノさん。
「これからは河原崎さんが助けてもらって。」
「…は、はぁ。それって、僕にくれるってこと?」
少女は笑顔でこくこくと頷いた。
隆史は複雑な表情を一瞬見せた。
が、すぐに笑顔でぬいぐるみを受け取った。
「ありがとう。」
ぺこりとお辞儀をする。
少女はまた、満面の笑みを浮かべた。
「思い出すなぁ。私がナマケモノさんと初めて出逢ったのも、この堤防の上だったんですよ。」
「へぇ、そうなんだ。」
「夢」
「へ?」
「河原崎さんは夢を見ますか?」
「夢、ねぇ。僕の夢は…プロのサッカー選手かな。」
「あ、サッカー上手ですもんね。…でも。」
「…?」
「違うんです。」
「…!?」
「私の聞いたのは夜寝ているときに見る夢のことです。」
「ああ、そっか。まぁ時々見るよ。」
「私は、毎晩見るんです。」
「へぇ、毎晩か。凄いな。」
「ええ。毎晩お話が続くんですよ。おとといの続きが昨日、みたいに。」
「ときどき順番が入れ替わったりもするみたい。」
「へ…。」
少女の語り口に熱がこもる。
「夢の中では、私、もう少し大きなおねえさんなんです。
そっちの(と前方の学校を指し示す)学校に通ってるの。」
「…。」
「そして、この堤防の上で男の人に出会うの。」
「ぶっきらぼうで、口が悪いけど凄く優しい人。」
「ずっと夢の中だけのお話だとおもってた。」
「…。」
「でも、一昨日の夢に私が出てきたの。」
「幼い頃の私が。」
「…。」
「そして二人はナマケモノさんを私にくれた。」
「病院を抜け出して迷子になってた私を助けてくれたのが、その二人だったんです。」
隆史は少し得心がいった。
「なるほど。昔の思い出を夢に見ていたんだね。」
「ええ。」
「でも、夢には続きがあって、私の知らないことまでどんどん出てくるんです。」
「夢の中の私、高校生の私、観鈴、神尾観鈴という名前なんですが…。」
ん…観鈴…? 隆史はその名前に何か聞き覚えがあるような気がした。
「観鈴さんはどんどん体を悪くしていくんです。」
「夢を見ながら…。」
「…。」
「まるで、今の私の…。」
「…。」
「…どんどん、眠りが深くなってくるんです。目が覚めずに、
私は夢の中で、苦しんで…。」

彩佳は隆史の左手を華奢な両手で包み込んだ。
「ねぇ、貴方は私を置いていかないですよね。」
二つの瞳が少年を見つめる。
少女は身体を震わせていた。

そして…、涙。
一筋、二筋、頬を伝う。

少年は気圧されて声が出なかった。
沈黙…。

少女の嗚咽が吹きすさぶ風のなかにかすかに響く。

ややあって、少年は静かに少女の手を握り返した。

力強く、ただ力強く。
しばらくして、
少女は静かに顔をあげた。
その瞳は真っ赤に染まっていた。

二人は何も語らなかった。
ただ、互いの瞳をずっと見つめ合っていた。

静かに風が二人の傍を通りすぎていく。

やがて、
先にそれに気付いたのは少年の方だった。

「志野さん…。」

少年の視線を追う彩佳。

そして…
「舞夏…。」

堤防の下から彼女が見上げていた。

見つめる双眸。
その瞳には微かに苛立ちの色が見えていた。
しかし、それは一瞬のこと。
次の瞬間、彼女はそれを覆い隠すように微笑んだ。
そして優しげに呼びかける。
「さぁ、おねえ。帰りましょう。」

彩佳は一瞬身体を竦め、そして紅く染まった瞳で隆史を見やった。
帰りたくない…。
隆史にはその意思表示にしか思えなかった。

束の間の沈黙。逡巡。

だが、彼女はわずかな間を置いて後、力無くふらふらと立ち上がった。
そしてゆっくりと自ら脇の階段を降りていった。
彼女の妹の元へと。

隆史はその後ろ姿へ声をかけた。
自然に声が出た。まるで魔法の封印が解けたみたいに。

「僕は、これからもずっとここにいるから。」

それが聞こえたか、一瞬、彩佳の足が止まった。
しかし、振り返らずにそのまま彼女は階段を降りきった。

舞夏の目が再び隆史を睨み付けていた。
やがて彼女は彩佳の手を取ると、軽く会釈をした。
それを最後に二人はゆっくりと歩み去った。

隆史は腕の中に残ったナマケモノのぬいぐるみをもう一度、
ぎゅっと抱きしめ直した。


波の音がする・・・。
潮の匂いだ・・・。
あれ、いつから僕はここに立っていたんだろう・・・。
「どうしたの?」
声がして振り向く。
そこに立っていたのは、ひとりの少女。
「ほら見て、できた」
彼女が嬉しそうに見せるのは、砂でできた城だ。
「うまくできたね」
「うん、うまくできた」
彼女も十分、満足したようだった。
「もうすぐ日が暮れるね・・・」
海を見て、眩しそうに目を細める。
「そうだね・・・」
「じゃあ、その前に確かめにいこうか」
「ん? なにを?」
「君がずっと確かめたかったこと」
「この海岸線の先に、なにがあるのか」
「わたし、そんなこと言ったっけ・・・」
「言っていないかもしれない。でも、絶対そう思ってると思ったんだ」
「そうだね・・・確かめてみたい」
振り返ると、堤防の上にひとがいるのが見えた。
男の人と女の人。
男のひとは眠っているのか、顔を伏せて座っていた。
その横で女のひとが、起きるのをじっと待っている。
そんなふうに見えた。
女の人が僕らに気づき、手を振っていた。
僕は手を振り返す。
「じゃ、いこうか」
彼女が先に立って、待っていた。
「うん」
「この先に待つもの・・・」
「無限の終わりを目指して」
ただ、一度、僕は振り返り呟いた。
その言葉は潮風にさらわれ、そして消えた。
「さようなら」


隆史は目を覚ました。
ゆっくりと目を開ける。
見慣れた天井、彼の部屋だ。
「…何だろう、さっきのは?」

「夢。」
彼女が居た。
出逢った頃の彼女だ。
そして、あのときの僕。
あり得なかったはずの風景…。

「いや…。」
(何かが引っかかる。なんだろう。)

夢。
河原崎さんは夢を見ますか。

少女の言葉が甦る。

彼女もこんな風に夢を見たんだろうか?
答えのない問いの答えを探して少年は窓の外を見た。
向いの家が見えた。
隆史の小さい頃から変わらぬ向いの家。
そこだけ時が止まっているように見えた。

(でも、この7年は決して夢なんかじゃない。)

目覚ましがけたたましい音を立てる。朝食の時間だ。
少年はまた一つ溜息をつくと、階下へと降りていった。

隆史達の通う中学の中庭には大きな木があった。
樫の大樹。
校庭から見ると、ちょうどサッカーゴールの裏側に位置している。
ふかしたシュートが何度か引っかかって、木登りに悪戦苦闘したこともあった。

その日の業間、いつも通りの益体もない会話でさわがしい教室を一人抜け出してきた少年は、廊下の窓からぼんやりとその樹を見やる。
自然に脚の出るのにまかせてそのまま昇降口から中庭へと出ていった。

そこに、後ろ姿がぽつりと一つ。
樫の大樹に向かって立っていた。

「…志野さん?」
隆史の声に振り向いた彼女。
思い詰めた表情、張りつめた雰囲気。
隆史は息を呑んだ。
「な、何…?」
が、次の瞬間、彼女の表情は軽くほぐれた。

「…えと、河原崎さん、こんにちは。」
彩佳の声はあいかわらず小さかった。

「ここで、何をしていたの…?」
「あ、え〜と、これです。」

彼女の指し示した物。樫の木の幹の皮にそれはへばりついていた。
「蝉の抜け殻…?」
「はい。」
「そうか、今年ももう蝉が出てきているんだね。」
「ええ。」
(…そうか、もう夏なんだ。)
「この色と大きさからしてアブラゼミみたいだね。」
そのうち、どこからともなく蝉の声が聞こえ始めた。

「アブラゼミさんの声。」
「そうだね。」
「今年も蝉さん達は大人になってく。残るのは抜け殻だけ…。」
少し寂しそうに彩佳が呟く。
「昔、初めて出逢った頃、君は言ってたよね。蝉は子供のときは土の中でずっとずっと暮らすから…、大人になって、やっと外に出られて、嬉しいからなくんだ。『ボクはここにいるよ。』って鳴いているんだ、って。」

「…あの頃…口癖のようにそんなこと言っていた気がします。」
「だったらさ、蝉が大人になるのは歓迎してあげたいと思うな。」
「…そうですね。」
彩佳は少し俯きながら微笑んだ。
少し勢いづいて隆史は続けた。
「君はこうも言っていたよね。」
「…?」
「水平線を眺めて『あの向こうには、何があるんだろ…。』って。」

少女はそれを聞いて、首を傾げ少し考えこむ様子だった。
やがて彩佳は目を見開くと、小さく悲鳴を上げた。
そしてその場にしゃがみこむ。
両手で頭を抱え込んで震えている。

「…どうしたの!?」
彩佳の両肩を掴み、その顔を覗き込む。

昨日と同じ、涙に濡れそぼった顔。
苦しみに歪んだ表情。
彼女は微かな声で繰り返していた。
「私は抜け殻なんかじゃない。私は抜け殻なんかじゃない。私は抜け殻なんかじゃない…。」
やがてふっと消え入るように静かに少女は眼を閉じた。

「ちょ、ちょっと。誰か、誰か!!」
思わず声を上げる。

渡り廊下を歩いていた人がそれを聞きつけ傍に来る。
「一体どうした!!」
白衣の女の人だった。
「霧島先生。」
町の診療所の女医の先生だった。霧島聖という。
隆史も何度かお世話になったので覚えていた。
その日は校医検診でたまたま学校に居合わせたのだ。

「ん、この子は志野さんとこの…。」
「…あの、その…。」
「とりあえず保健室へ運ぼう。手伝ってくれないか。」
「は、はい!!」

薬品の匂いが鼻につく。保健室だ。
ややあって衝立の向こうから霧島医師が現れた。

「とりあえず鎮静剤を打っておいた。」
「志野さんは、一体…。大丈夫、なんですか?」
「ああ。とりあえずは、な。」
「とりあえず?」
「すぐには生命に関わるようなことはない。」
「…そうですか。」
一旦隆史は息をついた。
だが、すぐに気付く。
「すぐにはって…? どういうことなんです?」
「…それは…。」

その時、保健室のドアが開いた。
舞夏が入ってくる。
「先生、彩佳は!? 彩佳は一体!?」
そして、その視線が隆史を捉える。
「また、貴方なの!!」
舞夏はもの凄い形相を見せた。
「一体、どういうつもりなのよ!!」

「落ち着きなさい、志野妹。」
「彩佳は今は落ち着いているんだ。お前さんが取り乱しても何の役にも立たんぞ。」
霧島医師の声に、少女は一旦鉾をおさめた。
「……、すみません。」
しかし、その双眸は隆史を睨み付けて止まなかった。
「でも、でもこんなことってない。ようやくよくなりかけていたのに…。」
「詮無きことは言うな、と言っておる。」
「…。」
「全部貴方のせいで!!」

「やめて!!」
突然の声に場が凍り付く。
振り向くと衝立を杖代わりに彩佳が小さく震えながら立っていた。
肩で息をしている。
「おねえ…。」
彩佳の口元には微かな笑みが漂っていた。
自嘲の笑み。そして蔑みを湛えた笑み。
その口が開かれた。
「舞夏、私は貴方の抜け殻なんかじゃないわ!!」
絞り出すような叫び声が部屋中に響き渡った。
隆史は彼女にこんなに大きな声が出せるとは思ってもみなかった。

そして、彩佳は己の体力を使い尽くしてしまったように、ぐらりとよろめいた。

隆史が駆け寄ってそれを支える。
彩佳は激しく嘔吐を繰り返した。
二度、三度、四度。
そして気を失った。

霧島医師は頭を抱えると、深く溜息をついた。

舞夏は呆然として微動だにしなかった。
激しい動揺が少女の身体を縛り上げ、すっかり硬直させてしまったようだった。

しばらくして後、
保健の先生が校医検診の後片づけから戻ってきた。
彩佳を保健室のベッドに寝かせ、三人は重い足取りで屋上へと場所を移した。
屋上は風が強かった。
ただひたすら風が強く吹き付けていた。

ようやく少し平静を取り戻して、舞夏は口を開いた。
「貴方に詳しい事情を説明しなかったのは私の落ち度だったと思う。」
隆史を振り返りながら舞夏は続けた。
「もう何もかも手遅れかもしれないけど…。」
「教えてくれるかい。」
「ええ。あの子は病気なんです。深刻な病…。」
「残念ながら、現在の医学では解明出来ていない種のものだ。」
と霧島医師が付け加えた。
「そういえば、あの子もそんなふうなことを言ってた。」

「…急に泣き出したり、取り乱したり、それだけならいいのだけど、身体の正常な働きがどんどん失われていくのよ。…さっきも見たでしょ、嘔吐するあの子を。それが、何によって引き起こされると思う…?」
「…。」
「他人との対話によって起こるの。今回は、貴方が引き金になったわ。」
「彩佳は人と接することにより、自分の身体が変調を来すことはよく知っている。だから、
出来るだけ誰とも深く関わらないようにずっと暮らしてきた。だけど、そうしていても、人間だもの。当然人恋しくもなるわ。」
「…。」
「私がサッカーをやめたのはそれもあるの。私があの子には必要だったから。他のことに気を取られる余裕なんてなかったわ。そう、双子だからか、私と接する分には全く問題なかったからね。おねえは私とだけ一緒に暮らしていれば何事もなかったと思う。でも、おねえは…、彩佳は貴方に出逢ってしまった。」
「彼女に出逢ったのは今回が初めてじゃないよ。」
「…わかってる。7年ほど前だったかしら。よく覚えているわ。おねえが珍しくはしゃいで帰って来たことがあった。知らない男の子に出逢ったと言ってた。そう、やっぱり蒸し暑い夏の日だったわね。そしてその後すぐだった。おねえが初めて酷く体調を崩したのは…。」
「え…。」
「きっと、あの子が最初に気を許したのが貴方だったということなんでしょ。」
言葉には僅かに棘が含まれていた。
「何故かは分からないけど、貴方は彩佳にとって特別な存在だった。その後、何度も症状は出たけど、最初の時ほど彩佳は苦しまなかったわ。そう、今回を除いては、ね。」

「おねえは苦しんでる。そう、苦しんでるのよ。貴方に出逢ったことでね…、彩佳は折角整理をつけたはずの気持ちを揺さぶられてしまったの。」
「…。」
無言で見つめる隆史の瞳に不満の色を見て、舞夏は続けた。
「貴方には責任がない。それは確かなことだわ。でも現実問題として、彩佳は…。さっき貴方も見たでしょ。ことあるごとに洗面所に駆け込んで戻す…。そんなおねえはもう見たくないの。耐えられない…。これ以上病状が進めばどうなるか…。私はあんなに苦しむあの子はもう見たくないの。ただそれだけ。お願い、もうあの子に逢わないで。あの子をこれ以上苦しめないで。」

隆史は口を真一文字に結んだまま、舞夏の言葉を一言一言噛みしめていた。
例え、納得が行かなくても、結論は既に出されていた。
変えようがなかった。

「わかった…。」
目を伏せて、そう一言彼は呟いた。
「ひとつ聞いてもいいですか。」
少年の視線は霧島医師の方に向けられた。
「彩佳さんの病気は、解明されてないとおっしゃいましたが、全く前例とかは無いんでしょうか。」

「…似たような症例はあったよ。」

「その人はどうなったんでしょう。」
「…。」
とまどいと、ためらい。
そして…。
「彼女はどんどん身体を悪くしていった。ついには歩けなくなって、そして…。」
「亡くなったよ。」
「…。」

「本当にいい子だったがな。」
「…その人を直接知っておられるんですか?」
「ああ、ちょうど7年ほど前かな。それまで彼女はこの町に住んでいた。」

隆史の胸が疼いた。まるで何かがそこに宿っているかのようだった。
自然に言葉が出ていた。
「その人の名は?」
「橘…、いや神尾だ。神尾観鈴、それが彼女の名だ。」

「神尾…観鈴…。」
どこかで聞いた。
そうだ。
堤防の上で会ったとき、彩佳が言っていた。
「夢の中の私、高校生の私、観鈴、神尾観鈴という名前なんですが…。」
「観鈴さんはどんどん体を悪くしていくんです。」

「そして、この堤防の上で男の人に出会うの。」
「ぶっきらぼうで、口が悪いけど優しい人。」
そして二人はナマケモノさんを私にくれた。」
「病院を抜け出して迷子になってた私を助けてくれたのが、その二人だったんです。」

その名…、偶然なのだろうか?

「河原崎さん…?」
隆史の思索を舞夏が遮った。

「ごめん。とにかく、僕と逢うことであの子が苦しむだけなのなら…。」
「そうなら…僕はあの子とは…」
苦しさに喉が詰まった。口元が震える。
「もう逢わない、少なくとも、彼女の病気がよくなるまでは…、そう約束するよ。」
「…。」
「…ありがとうございます。」
舞夏は小さく頭を下げた。

「…さぁ、授業に戻ろう。」
隆史の声は風の中、微妙に虚ろに響いた。

隆史にとってその日の帰り道はとてつもなく長く感じられた。
踏み出す一歩一歩に力が入らなかった。
蝉の声が耳について離れなかった。

自分があの少女についてどういう感情を抱いているか。
隆史は今まで、深く考えたことが無かった。

ただ、逢いたかった。
ただ、話をしたかった。

この7年間はずっとそうだった。
そして、再会してからも。
ただそれだけだった。
それだけで楽しかった。
それより他に何も考える必要がなかった。

(僕は彼女を好きだったのだろうか。)

それは恋と呼ばれるべきものだったのだろうか。
それとも全く別の…?
隆史にはわからなかった。

やがて、気の遠くなるような長い時を経て、
隆史は自分の家へと辿り着いた。


そして時はゆっくりと過ぎていった。

全て、何事もなかったかのように……。

 サッカー部は大方の予想通り、一回戦で敗退した。
 優勝候補相手に、ようやく態勢を整えたばかりのチームではやはりどうしようもなかった。
 
 後半に入って、隆史のシュートで一点を返すのがやっとだった。
試合終了のホイッスルが鳴り響いたとき、
スコアボードにはただ1−5の表示が残されていた。

学校は夏休みに入った。
隆史は、相変わらずボールは蹴っていたが、その心は宙をさまよったままだった。
 あれ以降、舞夏は姉について何も語らなかった。
 彼女は部活では隆史とも、にこやかな笑顔で接していた。
 そして、部活が終わるといつもそそくさと帰宅していた。
 姉の入院している病院に通っているらしい、と他の部員から聞いた。
 彩佳の容態はあまり芳しくないらしい。
 自分が彼女のことを考えて何になるわけでもない、それは隆史にもよくわかっていた。
 だが、隆史は、気が付くと、いつも彼女のことを考えていた。彼女の声が脳裏に響いていた。
「夢。」
「夢か。僕の夢は……。」
彩佳の微笑む顔が脳裏に浮かんだ。
そして、次の瞬間、響く声。
彼女の絶叫…。
倒れる少女。
そんな光景が脳裏でずっと繰り返されていた。
何度も何度も、絶え間なく。

「僕は、あの子にとって苦しみのきっかけでしかないのだろうか…。」
答えのない問いは宙に消える。
ふと振り返ると眼をそらす舞夏の横顔がある。
それが少年の日常と化しつつあった。


部活から帰宅すると、玄関の前で母が待っていた。
「おかえり、隆史。ちょっといい?」
「…何?」
「今からお墓参りに行くの。手伝ってくれる?」
「いいよ。」
今はとにかく、何か身体を動かして気を紛れさせたかった。
だから、隆史にとって母の申し出は非常に有難いものだった。

墓石が並んでいた。
頂上に神社をいただく山の麓にひっそりと墓地はあった。
隆史の家から十分歩いてこられる距離だ。

丁度その中程あたりに、隆史の家の墓所はあった。
中心に大きな墓石が一つ。「河原崎家代々之墓」の文字が見える。
墓石の横側には亡くなった祖父や祖母の名が見えた。
隆史は無言で手を合わせた。

母と手分けして、柄杓で水を打ち、線香をあげ、花を供える。

脳裏に彩佳の顔が浮かぶ。
(君が死んでしまったら、それまでだよな。)
(お墓とは話できないものな。)
それならば、元気で生きていてくれれば、それでいい。
少年はそう思った。
また、時々顔を見ることも出来るだろう。
いつか、もし彼女の病気が治るのなら、話をすることも出来るようになるかも知れない。

そう。それでいいんだ。

あの一見以来、少年が心の中で何度も繰り返した言葉だ。
これからもおそらく何度も繰り返すのだろう。

「ありがとう。先に帰って夕飯の支度をしておくから、ごみだけ捨てて置いてくれる?」
「うん。わかった。」
母の背をしばらく見送った後、
隆史はごみをまとめて隅のごみ焼場へと持っていった。
山積みになったごみの頂にちょこんと載せる。
任務完了。
隆史は手の甲で額の汗をぬぐった。

その時、視界の隅に写った何か。
ごみ焼き場の隣りの真新しい小振りな墓石。それが何故か目に留まった。
一瞬、隆史は首を傾げ、
そして、次の瞬間、何故それが目を引いたのかはっきりとわかった。

神尾家之墓

墓標にはそう刻み込まれていた。

隆史は我知らず墓標へと歩み寄っていた。
そして、墓標の側面を覗き込む。
果たして、そこには、彼女の名前があった。

「神尾観鈴 享年十七歳 」

隆史は自分の胸が何かで一杯になるのを感じた。

しばらく放心状態を続けた後、隆史は静かに手を合わせた。

彼女は生きていた。確かにこの町で生きていたのだ。

「誰や?そこにおるんは?」
背後から声がかかる。
振り返ると、背の高い女の人が立っていた。
長い髪を無造作に頭の後ろで束ねている。
Tシャツにジーパン。
手に新聞でくるんだ花と線香、反対の手にバケツを持っている。
彼女もお墓参りに来たようだ。
「神尾さん、ですか?」
「なんや、お前、なんでそれを…?」

「貴方は、知ってらっしゃいませんか。神尾観鈴さんのことを。」
女の顔色が変わる。
「…それ、どういうことなんや?」

少年の中に、その時、ずっとぼやけていたものが少しずつくっきりと形を取って現れてきつつあった。
忘れていた記憶…。
そして少女への思い。
「僕は、彩佳を助けたいんです。」
それは自然と言葉になっていた。

「…はぁ!?」
この女の人にそれで意味が通じるはずがない。
思い直して少年は続けた。
どう言ったらわかってもらえるだろう?
「僕は7年前に観鈴さんと、そしてもう一人、背の高い男の人に出会いました。」
自分で口に出してみて、おぼろげだった過去の記憶が、さらに少しずつしっかりと甦ってくるのがわかった。
「背の高い…あの居候のことか。」
「僕はあの人の持ってた人形をけっとばして…。」
「はは。そういやそんなん持っとったな、あいつ。」
もう一度女は隆史の顔を見た。
「嘘はついてないみたいやな。どや、一緒に墓参りするか?」
「へ…?」
「そしたら後でおごったるで。ウチでな。」
女の人は笑いかけた。
「……はい。」
「よっしゃ、ええ返事や。」

少し長めの墓参りを終え、二人は帰途についた。
「あんた。名前はなんていうんや?」
「隆史。河原崎隆史といいます。」
「河原崎…?どっかで聞いたような…。まぁええわ。ウチは晴子。神尾晴子や。」
「晴子さん、ですか。あなたは観鈴さんの…?」
晴子は一瞬困った顔をしたように見えた。
だが、すぐ小さく笑ってその問いに答えた。
「…母親や。あの子は私のこと、お母さんて呼んでくれたさかいな。」
「…はあ。」
「どや、若うてびっくりしたやろ。」
おどけて胸をはる晴子。
「ええ、まぁ。」
「どや、若うてびっくりしたやろ。」
繰り返す晴子。
「はぁ。びっくりしました。」
仕方なしに答える。
「そやろ、そやろ。隆史君は正直でよろしい。」
ばんばんと肩を叩かれて、隆史は苦笑いした。

そんな調子でひとしきり歩き続ける二人。

「あの、一つ聞いていいですか?」
「なんや?歳は教えへんで?」
「いや、そうでなくって。」
「僕たち、どこへ向かってるんでしたっけ。」
「ウチの家や。もうすぐ着くで。」
「ひょっとして、もの凄くご近所さんでした?」
「あんたの家もこの辺やったんか。」
「ええ、僕の家は…」
「ちなみに、ウチの家は…」
「あれです。」
「あれや。」
二人の声が重なる。
互いに相手のさした指の先を確認した。

「なんや、あんた向かいの河原崎さんとこのボンかいな。」
「向かいの…そういえば表札に神尾って…。」

二人は目を合わせるとどちらともなく
声を上げて笑い出した。

「そ〜か。そ〜か。そら、観鈴にも逢うてるわな。」

そういえば、昔、向かいのお姉さんのことを、
母が「みすずちゃん」と呼んでいたような気がする。

またひとつ記憶が繋がって、そして…。

「ま、とりあえず上がりや。ここやったらちょっとくらい遅くなってもすぐ帰れるやろ。」

通された居間。緑色の羽根の扇風機。
古ぼけたテレビ。
「そこ座りや。」
「はい。」
飲み物がなみなみと注がれたグラスが隆史の目の前に置かれる。
桃のいい匂いがする。
「さ、どうぞ。」
何か意味ありげに晴子が笑う。
「いただきま…、ぐ…。」
喉にまとわりつく液体に戸惑う隆史。
「どや、びっくりしたか?」
「びっくり、しました…。」
「そやろ、そやろ。」
「それ飲んだ人間は、みんなそれとおんなじ反応をしよるんや。」
「はあ…。」
「それなぁ、あの子の、観鈴の好きやったジュースや。あの子だけはなんでか、それごっつう気に入っとったわ。とにかく、どこか変わった子やったな。」
「……。」
「でも、そんな変わった子やったから…。」
晴子は古ぼけたスケッチブックを取り出してテーブルの上に置いた。
「こんなもん、残していきよった。」
スケッチブックの表紙には、『絵日記』とタイトルがつけられており、
その右下に、「神尾観鈴」の名前があった。
「高校生にもなって、絵日記もないもんや、と思っとったけどな。」
「あんた、観鈴のこと知りたい、言うてたな。」
「…これ読ませてもらっても、いいんですか?」
「ああ、ええよ。」
隆史は緊張しながら表紙をめくった。
落書きの様な絵と、あまり形の整っていない文字の列たちが交互に紙を埋め尽くしていた。

 この夏休みはたくさん楽しいことがあった。
 恐竜の赤ちゃんも買ってもらった。

 この夏は、お母さんのにおいがした。
 いっぱい、いっぱい、お母さんのにおいがした。

その中には一人の少女の、夏の日々の幸せが綴られていた。

往人さんは人形をなくして探していた。
わたしも一緒に探した。ずっとずっと探した。
人形は木の枝にひっかかっていた。

「これって……。」
隆史には思い当たるところがあった。
「ひょっとして、僕がけっとばした……?」

往人さんは泊まるところがないらしい。
夕食どうですかって誘ったら、家に来てくれた。
この人なら、私を嫌いにならないでいてくれるかもしれない。
頑張ろう。
頑張ってラーメンつくった。
往人さんは美味しそうに食べてくれた。
二人で食べる食事は楽しいと思う。

延々と綴られた幸せの記憶。
十七歳で亡くなった女の子。
けれどその短い人生は決して不幸なばかりではなかったのだ。
隆史は少し救われた気がした。

しかし、

やがて日記は少しずつその内容を変えていく。

夢。夢を見るの。
すごく、すごく幸せな夢。
私の背中には羽根がある。
きれいな羽根。
私は、男のひとと、女の人と、一緒に旅をしてる。
どこまでも一緒。

眼を覚ましても、私には往人さんとお母さんがいる。
ずっと一緒だよね。
ねえ、ずっと一緒だよね。

眠い。
身体がだるい。

痛い。

痛い。
なんだろう、これ。
背中のうしろっかわが痛いの。

どうして…?
昨日よりずっと痛い。
どうして?
おとといよりもずっとずっと痛いよ。

どうしてかなぁ。
頭も痛いよ。
吐き気もする。

私、どうなっちゃうのかなぁ。

次のページは一度ぐしゃぐしゃにやぶかれて、
そしてセロファンテープで丁寧に繕ってあった。
ところどころ文字がにじんでいた。

往人さんが出ていくと言った。

ああ、と隆史は納得した。
この往人という人も自分と同じことを考えたんだ。
一緒に居続けたなら、この子を傷つけるだけなんだと。
壊してしまうだけなんだ、と。
だからきっとこの人も離れる決心をしたんだ、と。

往人さんが出ていくと言った。

嫌いになったんだ。
わたしのことが嫌いになったんだ。
嫌になったんだ。
往人さんも具合が悪くなったと言った。
だから出ていくと言った。
私のせいだ。
私のせいだ。

こんな辛いの、往人さんだって嫌だよね。

やっぱりそうなんだ。
こんな子嫌だよね。
お母さんも帰ってこない。

もういいよ。
私はずっと笑っていればよかったんだ。
往人さんにも声をかけたりなんかしなければよかったんだ。
ひとりで笑っていればよかったんだ。
寂しくても、笑ってさえいればよかったんだ。
そうしたら誰にも迷惑かけずにすんだんだよね。

ごめんなさい、往人さん。
ごめんなさい、お母さん。
ごめんなさい、私。


夢を見た。
いい夢だった。
往人さんが帰ってきてくれた。
私の手を握っててくれた。
暖かかった。

目が覚めた。

……往人さんはいなかった。

それが、今の私の本当だった。

どこにも往人さんはいないの。
あの人は行ってしまった。

それがげんじつ。

わたしは、ずっとひとりきりなんだ…。
友達になれそうになると、わたし泣き出しちゃって…。
好きなひとができても、そのひと失って…。
わたしは、いろんなひとに迷惑かけて生きてる…。
だからだよね。
今までのわたしたちは迷惑かけないように、死んできたんだ。
結局わたしが、がんばっても、人に迷惑かけるだけで、いいことなんてひとつもなかったんだ。
わたしもあきらめていたらよかったんだ。
ずっと…誰も好きにならずに、ひとりでいればよかったんだ。
わたしだけが犠牲になればよかったんだ。
わたしだけが不幸だったらよかったんだ。

いくら泣いてもあの人は帰ってこないんだ。

そして、消しゴムで丁寧に消された文字。
その上から鉛筆で塗りつぶして、それでもくっきりと跡が残った文字。
ひときわ大きな殴り書きの文字。

大嫌いよ。

隆史はスケッチブックを取り落とした。
言葉が出なかった。

彩佳の声が甦る。
「貴方は、どこへもいかないですよね。」

「ど、どないしたんや?」
黙り込んだままの隆史を気遣って晴子が声をかける。
「やっぱ、おもしろないもんみせてもうたかな……。」

隆史はふと我に返る。
「あ、いえ、すみません。」
「そのスケッチブック、あの子の部屋の押入の奥の奥にしまってあったんや。あの子がおらへんようになってから見つかってなぁ。」
「……。」
「きっと、あの子、誰かに読んでほしかったんちゃうか、思てな。」
「……。」
「ごめんな、ほんま、悪かったな…。」

隆史は立ち上がった。
「いえ、ありがとうございました、神尾さん。」
少年はぺこりとお辞儀をした。
「僕、帰りますね。」
「ああ……。」


隆史の頭のなかで、いろいろなものが混じり合いぐるぐると回りつづけていた。
なんとなく家に入るのは躊躇われた。
一人になりたかった。
隆史は玄関先からボールを持ち出すと、そのまま砂浜へと向かった。

夏の日は長く、西の空にまだ太陽は紅く染めたその身を残していた。

全てが真っ赤に染まる。
堤防の上に立ち、風を全身に浴びながら、隆史は夕陽を見続けた。
何も考えたくなかった。
夕陽が眩しくて、あまりにも眩くて。
そして、自分がどうしようもなく醜いものだと感じた。

少年は堤防の上でしゃがみ込み、小さく身を竦めた。
ボールを固く抱きしめる。
微かに震える。
風が冷たい。冷たかった。

どのくらいそうしていただろうか。

やがて、少年はそれに気が付いた。

夕陽の中、砂浜に立つ後ろ姿があった。

麦藁帽子。フレアスカート。

隆史の胸の鼓動が高まる。

少年は堤防を降り駆けだした。

息が弾む。

(あれは、あれは。)

「……あ、あのぅ。」
その声に、人影は振り向いた。

少年は足を止めた。

「……なにか御用ですか?」

彩佳ではなかった。
振り返ったその女性はあきらかに彩佳よりも背が高く、そして年を経ていた。
20歳くらいだろうか。

「……?」
彼女は小首をかしげた。

「どうか、しましたか?」

「あの…、後ろ姿が知り合いに似ていたので……。すみません。」
隆史は正直に答えた。
気の利いた言葉を選ぶゆとりもなかった。
その目は彼女の顔を見つめ続けていた。
彼女は、どこか彩佳に似ていたのだ。

単に造形だけ取れば違ったかたちをしていただろう。
ただ、その存在の作り出す空気、雰囲気がほとんど同じだった。
隆史はそのことを我知らず感じ取って戸惑っていた。

「人違い……、ですか?」
「は、はい。」

それは、残念でしたね、と彼女は呟いた。

はい、と彼女はポケットから何かを取り出す。
思わず受け取る隆史。
進呈……、と彼女はまた呟いた。微かに微笑んでいた。
紙切れのようだった。
広げたそれは……。
「お米券……?」
「残念賞です。」
はぁ、と曖昧な返事を返す。

彼女はまた海の方を振り返った。
夕陽をずっと眺めている。
「夕陽。」
「……?」
「夕陽は変わらないですね。」

隆史は過去のことを思い出していた。
水平線の向こうを見つめていた少女。

あの時と夕陽は変わらない。
でも僕たちは変わってしまった。

隆史もぼんやりと夕陽を眺めた。
喪失感に圧倒される。

気が付くと、
女性は隆史の方を見ていた。
「……?」

「きっと、あなたも同じなのですね。」

「夕陽に忘れられない思い出を持っている。」

「……?」
「私は遠野美凪といいます。今は大学院生。」
休暇を利用して帰省しているんです、と美凪は続けた。
あの街では、こんな夕陽は見られませんから、と彼女は子猫の鳴くような小さな声でそう呟いた。

それから、二人は会話をすることもなく、しばらく並んで夕陽を眺めていた。

不思議と風が暖かく感じた。

やがて、美凪は小さく、帰りますね、と呟いた。
隆史もさようならと頭をさげた。
美凪はゆっくりと砂浜を横切って、堤防の向こうに姿を消した。

隆史はその後ろ姿を見送った。

そして。
ようやく、自分のとるべき道をみつけたような気がした。
遅すぎたかもしれない。
でも、ひょっとしたら、まだ間に合うかもしれない。

彼女は、彩佳は観鈴さんの記憶を持っていた。
彼女にとって、もしも少しでも自分が救いであったのなら。

自分勝手な考えかもしれない。
それでも、隆史は思ったのだ。

あの子に、彩佳にもう一度逢いたい、と。



街の総合病院は駅の西口改札を出てすぐ前の通りにあった。

鉄筋コンクリートの白い建物。
生気の抜け落ちたような白。
彩佳の肌の、そしてワンピースの白を隆史は思いだしていた。
此処に彼女がいる。
隆史は病院の中へと足を踏み入れた。
彩佳の病室を訊ねようと案内窓口を探す。
表示板の矢印が左手を指していた。
ロビーの先に窓口が見えた。

そのとき、
「河原崎さん。」
後ろから声がした。
聞き覚えのある声。
振り返るとそこに舞夏が立っていた。
「久しぶりだね、志野さん。」

「どうして、ここに?」
「僕も色々考えた。そして、もう一度彼女に会いたいと思ったんだ。」
舞夏はじっと隆史の眼を見つめた。
「…ちょっと外へ行きましょうか。」

通用門から病院の裏手に出る。
小さな公園があった。
ベンチに並んで座る二人。

「…いつ以来かな。」
「一週間ぶりくらいでしょ。部活で顔合わせていたし。」
「いや、こうして話をするのが、だよ。」
「…。」
「結局、あの子が学校で倒れた、あの時以来なんだよな。」
「…そうね。」
「もう一度言うよ。あの子に会わせて欲しい。」
「…私は賛成出来ないわ。」
「どうして…?」
「どうしてって…。前にも言ったでしょう。貴方は彩佳の心を突き刺す針のようなもの。互いに傷つき合ってもそこからは何も生まれないわ。…そうじゃないかしら。」
「何か少しでも変えることが出来るかも知れない。そう思ったから僕はここに来たんだ。」
「…そんなの、あなたのただの思い込みじゃない。ここまで彩佳を追い込んだのは貴方なのよ。」
「わかってる。でも、それを言うなら君も同じだ。」
少女の眼が少年を睨み付ける。
「…ちょっと貴方、自分が何言ってるか本当にわかってるの!?」
「…ごめん。気に障ったのなら謝るよ。でも、そのことは君もわかっているんだろ。」
舞夏は目を逸らす。
「…確かに彩佳は私の負担になる自分を恥じている、悔やんでいる。それは事実かもしれない。」
「でもそれはしょうがないじゃない。他にどうしろっていうのよ!!」
「君は自分で自分を追い込みすぎているんじゃないだろうか。どうしてそこまで自分を…? あの子と一生二人だけで暮らすつもりなの?」
「…私はそれでいいと思っているわ。」
「それがあの子の負担になっているのに…。」
「勿論それもわかっているわよ、貴方に言われなくてもね。」
舞夏は腿の横で拳を握りしめていた。
「君個人の将来はどうなるんだよ。あの子のためだけに君が生まれたわけじゃないだろう。」
「…何も…。」
「…。」
「何も知らない癖に…。」
「…。」
「…何もわかってないくせに、偉そうなこと言わないでよ!!」

「そう、あの子は貴方が思っているよりずっと弱い子よ。はっきり言わせてもらえばいらいらするくらいにね。」
「そしてあの子は我が儘よ。怖いくらい。自分の欲しいものはみんな手に入れたがる。全てを望むから、あの子は不幸なのよ。」
「…。」
「あの子が微笑むだけで、誰もがあの子の虜になる。お兄ちゃんも、そして、貴方もね。」
「あの子はずるい。」
「テストで満点取って、サッカー一所懸命練習して、私が精魂尽くしてやっと手に入れられるものを、彩佳はちょっと微笑むだけで手に入れることが出来るのよ。大嫌いだわ、あんな子。ママも、パパも、みんな一人締めして…。そのくせ、自分がどれだけ恵まれているか、なんて考えてみようともしない…。」
少女は大粒の涙をこぼした。
「…でもそれは…。」
「…わかってるわよ。それが私の我が儘だってことは。こんなことを延々と考え続けて来た私がイヤ。なにより嫌いなのは私自身。…でもどうしようもないじゃない。私がいい子にしていれば、いつか彩佳は元気になる。私はママのそんな気休めの言葉を信じるしかない。結局私の居場所なんて、他のどこにもないんだから…。」

ずっと胸の奥にしまってきた舞夏の想いが、いちどきに溢れだしていた。
その激流をまともに受け止めかねて、隆史はおし黙った。

舞夏はかすれるような声で言った。
「…それとも、ねぇ、貴方が何処かへ連れて行ってくれるの? 私を此処じゃないどこかへ…。」

それはどこかで見た光景…。

見つめる瞳、こぼれる涙
そして…消え入りそうな声。

お願い。連れて行って…。ここじゃない何処かへ…。

「まさか、君は…。」

「…なんです…。」

「あの時一緒に夕陽を見たのは…。」

少女は一瞬きょとんとした表情を見せ、
目を見開き、それから両手で口を覆った。

「…君の方だったのか。」

あの時、感じた微かな違和感。
彼女の周りに居なかった蝉。
あれは、あの少女は、舞夏の方だったんだ。

「…ずっと黙っているつもりだった。」
やがて舞夏は静かに口を開いた。
「そうです。7年前、最後の一度、貴方に会った彩佳は私です。」
「…。」
「貴方を騙すつもりはなかった。でも、私には自信がなかった。だから、私はあのとき髪をほどいた。」
「そう、こんな風に…。」
彼女の髪を留めていたゴムが地面に放られる。
舞夏の髪が風に広がった。
そして…。
そこには彩佳そっくりの少女の姿があった。
本当に見分けがつかないくらいそっくりだった…。

 やがて、舞夏は言葉を継ぎ足した。
「彩佳と違う誰かに…、彩佳を越える私になりたくて、ずっと私は髪を上げていた。」
「でも、結局私はあの子を越えられなかった。」
「7年前彩佳が倒れた時、目の前が真っ暗になった。自分には何もないのだと思った。」
「私は何かに縋りたかった。彩佳の話を思い出して、そして彩佳のふりをした。」
「一人で貴方を待っていた間、ずっと不安に押しつぶされてしまいそうだったわ。ほどいた髪が鬱陶しくて、重かった。」
「あの時、自分を信じることが出来ていたら…。舞夏として貴方に会っていたら…。」
「そうしたらあの子をこんなに憎く思うこともなかったかもしれないのに…。彩佳は何も悪くなんかないのに…。」
「ごめんなさい……。」
少女はかぶりをふって身を竦めた。
「…仕方がなかったんだよ、それは。」
少年の声に少女は顔を僅かにあげる。
「仕方なかったんだと僕は思う。」
「…でも…。」
「君は悪くなんかないさ。それはあの子と一緒だと思う。」

舞夏はしばらく隆史の顔を見つめた、そして…。
涙が一筋頬を伝って落ちた。

「ありがとう。」
満面の笑顔。
でもどこか煤けたような、そんな印象の笑顔。
それが彼女の精一杯だった。

「…あの子の所へ案内するわ。」
妙にかすれた声で舞夏はそう言った。

彼女の病室は個室だった。そこは中途半端に広く、がらんとした雰囲気があった。気の利いたものは何もおいていない、無機質で空疎な空間。

その奥の方。窓辺に大きめのベッドが見
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「AIR」二次創作「うつせみのうた。」(後編)

「…あの子の所へ案内するわ。」
妙にかすれた声で舞夏はそう言った。

彼女の病室は個室だった。そこは中途半端に広く、がらんとした雰囲気があった。気の利いたものは何もおいていない、無機質で空疎な空間。

その奥の方。窓辺に大きめのベッドが見えた。

その上で彩佳は眠っていた。
点滴の器具を脇に置いて。
彼女は静かに眠っていた。

「彩佳はずっと目を覚まさない。」
「…。」
「こうしてもう一週間…。」
舞夏は深く溜息をついた。
「彩佳は、私達を、この世界をずっと拒絶したままなの。」

「…この子は帰りたがっているよ。多分、帰り方が分からなくて迷っているだけなんだ。」
「この子が目覚めるまで、僕は待つよ。」
「…。」
「この子はきっと眼を覚ます。だって、独りは何より辛いもの。」
「…それは…。」
「一樹がいて、父さんが居て、母さんがいて。」
「でも、僕もずっと独りだった。ずっと、ずっと独りだった……。」
「でもそれは誰のせいでもない。」
「誰のせいでもないんだ。」
彩佳の手を隆史は両手で握りしめた。

「君が目覚めたら、僕は君に伝えたい。」
「もしかしたら君には、なんのことかわからないかもしれない、意味のないことかもしれない。僕の勘違いもしれない。でも…それでも、僕は君に伝えたい。」

「君は独りなんかじゃないんだ、と。」

「蝉の抜け殻には、幼虫の間ずっと焦がれ続けた想いがつまっている。」
「だからこそ、蝉は蝉になれるんだ。その想いは蝉にとって必要なものなんだ。」

「そして、その時、僕は君の名前を呼びたい。」
「夢の中でいつも呼んでいた名前を呼んでみたい。」

「ねぇ、彩佳…。」

やがて、隆史の手の甲の上にもう一つ手が重ねられた。

「私も、もう一度彩佳に伝えたい。」
「おねえちゃん、ずっとごめんね。ありがとうって。」

やがて、
微かな光が部屋を包み始めた。
そして、
さらにもう一組の手が被せられた。

半分透き通った手。

隆史が顔を上げる。
背に翼の生えた少女。
その顔に、少年はかすかに見覚えがあった。

「み…」

通常の声ではない少女の声が頭の中に響いた。


忘れ物を、取りに来たの…。




私は観鈴と言います。はじめまして。隆史君、そして舞夏ちゃん。


翼の少女、観鈴は小さくお辞儀をした。

何が起きているのか理解できないままの二人に向かって、観鈴は語りかける。


ごめんなさい。あなたたちには辛い思いをさせてしまいました。全ては私のせいなんです。



私は7年前に死にました。翼人の記憶、この星の記憶を抱いて。
私が全て持っていけば、もう誰も苦しまなくてすむ、そう思ったから…。
私はずっと苦しかった。好きなひとが出来て、友達になれると思うたびに身体が震えるの。
吐き気がするの…。涙が止まらなくなるの……。本当に辛かった。


舞夏はそれを聞き、顔をゆがめ俯いた。
隆史は黙りこくって観鈴の次の言葉を静かに待っている。


私は、何度も生まれ変わった。ある記憶と一緒に。
それは、この星の記憶。この星が生まれたときからの。
それを受け止めることの出来た者。
それが翼人。
翼人は星の思いをずっと受け継いできた。
でも、翼人は死に絶えてしまった。
ひとの争いに巻き込まれてしまったから。
そして行き場のなくなったほしの想いは人に宿るようになった。
でも人はそれを受け入れることが出来なかった。
受け入れる器が小さすぎたのよ。
私たちは星の記憶を夢として受け取ってきた。
でもそれが身体に大きすぎる負荷となった。
誰も全てを受け止めることが出来なかった。
星の想いはあふれ、こぼれて次の器を探す。
何度も何度も、ずっとその繰り返しだった。
 そして、私、みすずの番が来た。



私も、耐えきれず力つきてきた幾人ものひと達の記憶を夢に見るようになった。
翼の生えた女の子のことも。
段々とわかってきた。
この星の記憶を全部受け止めることが出来たら、
このほしは、ひとを認めてくれるんだと。
ひとをゆるしてくれるんだと。
私はがんばった。次のわたしが苦しんだりしないですむように。
こんなにつらいのが私で最後になるように。
駄目になりそうになったとき、往人さんが助けてくれた。
がんばれって、手をにぎっててくれた。
あったかかったよ……。



そして、わたしは、自分の記憶をなくしちゃったわ。



そのおかげで、想いを最後まで受け止めるが出来たの。
自分の記憶をどかしたぶんだけ他のひとよりたくさん受け止めることが出来たの……。



でも、最後の最後で、わたしは、わたしだってことを思い出しちゃった。
わたしは……。わたしは死にたくなかった。



その想いが残ってしまったの……。わたしは普通に生きたかった。
普通にひとを好きになりたかったよ。
そう、例えば遠野さんみたいに……。


「遠野……。」
隆史は思わず呟いた。あのひとのことだ。夕陽をみていた彼女。


遠野さんはクラスメートだった。物静かで美人で頭がよくて。ああいう風になれたらってずっと思ってた。あこがれてたのね……。駅で往人さんと遠野さんが楽しそうに話してるのを偶然見かけたとき、わたしは……。



その想いがまたこぼれてしまった。そして、彩佳ちゃんに注ぎ込まれてしまったの……。


彩佳はどこかしら遠野美凪に似ていた。それが観鈴の想いを呼び寄せてしまったのだろうか。


ごめんなさい……。全部わたしのせいなんです……。

観鈴の声は消え入るように小さくなった。

隆史と舞夏は目を見合わせた。
隆史が口を開く。
「……彩佳を助けることは出来ないんですか。」


……私はほしの想いとひとつになることによって翼人へと転生しました。
今のわたしはひとの想いを直接別のひとに伝えることが出来る。
あなた達に、彩佳ちゃんの想いを伝えることも、そしてその逆も。



もし、それによってあの子の心を動かすことができたなら……。
でも……。


「……どうしたんです?」


……。


「お願いです。あなたの力を貸してください。このまま、彩佳が目覚めないままなんて、絶対にいやなんだ……。」
隆史が舞夏を横目でみる。

「……私も、いやです……。」
舞夏は目を閉じてまだ微かに震えながらそう答えた。


わかりました。
……ありがとう。

観鈴は隆史と舞夏の手を重ね合わせると彩佳の胸の上においた。
そしてそれでは始めますと声をかけた。

再び光の輝きが部屋を満たした。

その輝きの激しさに隆史と舞夏は思わず目をつぶった。

頭の中に声が響く。
彩佳の声だ。

ずっと思っていた。
私は誰にも何も期待されてないの。
私にはしてはいけないことがたくさんあるだけ。
身体が弱いから……?
そうね。
そう、だから仕方がないんだよね。

生きていてくれさえすればいい。
それがママの口癖。
いつのころからか、私はあきらめながら生きるようになった。
ママも舞夏も私のために、いろいろとしてくれてる。
私はせめて、出来るだけ生きようと思ったわ。
少しでも長く生きようと。
それがみんなへの恩返しになると、そう思ってたの。

私は、自分が他の子とは違ってるということを知った。
病気のこと。
そして、もう一つ。

そう。他の人は風や木やそして虫さん達の声が聞こえないの。
 みんな普通にしゃべっているのに。
 他の人には聞こえないの。
 
 そのことを話したら、ママは、最初は笑いながら聞いてくれていたけど、
 そのうち、困った顔をするようになった。
 そして、
 嫌われちゃうからやめた方がいいわ。他の人には絶対言わないって約束して、
 と。
 その時は別にいいと思った。
 私は嫌われたくないの。
 それだったら誰にも言わない。
 それでいい。
 そう決めたの……。
 
 ママは言った。彩佳はかわいいから、笑っててくれればいいのよ。
 それだけで、みんな幸せな気持ちになれるんだからね。

 私が笑ってないと誰もが心配してくれた。大丈夫?気分が悪いの?ちょっと休憩する?
 そして、私が笑うとみんなほっとした顔でやっと笑ってくれた。
 
 だから、
 私は笑っていなくちゃいけないんだ。
 そう思ったの。

 私はどんなことがあっても、笑っていようと思った。
 それでみんなが幸せになれるんなら、それでいいと思った。
 
 ママもパパも、舞夏も、お兄ちゃんも、それでみんな幸せなんだと思ってた。

 でも、じゃあ、私は……?
 私はどうなんだろう。
 誰も本当の私を見てくれない。
 みんなは、私じゃなくて、私の笑顔が好きなだけなんだ……。
 
 当たり前だよね。
 こんな、すぐに熱出して、迷惑ばっかりかけるような子なんて、
 こんな、ありえない声が聞こえるようなヘンな子なんて……、
 好きになってもらえるわけないもの。
 誰も好きになってくれるわけないもの……。

 でも、そう、あの子は違った。
 浜辺で逢った男の子。
 嬉しそうにクワガタさんの話をしてくれた。
 私の中から素直に言葉が出てきた。
 セミさんの話をしても、本当に嬉しそうに聞いてくれた。
 わかってくれた。
 そう思った。
 
 その夜、熱を出したけど。
 全然辛くなかったよ。
 
 だって私は私だったもの。
 それに、私はひとりじゃないんだって、そう思えたの。
 
 一晩寝たら熱もひいた。
 私は毎日夕方になるとベッドを抜け出した。
 お昼間に大人しく寝ているのも我慢できた。
 あの子とおしゃべりするために、身体を休めないといけないもの。
 疲れると熱が出たけど、苦しくても我慢できたよ。
 ママに叱られても、平気だった。
 そうやって私は楽しい日々を過ごした。

 でも、五日後、身体が動かなくなった。
 熱が下がらない。
 舞夏が枕元で泣いていた。
 私の手を握って泣いていた。
 泣かないで、私は大丈夫だから。
 唇を動かすのも辛いけど、だいじょうぶだから、と囁いた。
 舞夏の手を一生懸命握り返した。
 私はだいじょうぶだからね。

 でも、今日は浜辺へ行けそうにない。
 今度いついけるかもわからない。
 あの男の子に心配かけてしまう……。
 どうしよう……。

 舞夏は私にたずねたわ。
 おねえちゃん、何か欲しいものある?

 わたしの欲しいのは元気な身体。
 あなたのその元気な身体よ……。

 でも、そんなこと言えるはずがない。
 言っても仕方がない。
 私はそのかわり、別のことを頼んだ。
 
夕方、私の代わりに浜辺へ行って、
 あの子に、心配しないように伝えて欲しい、と。

 舞夏はいいよ、と言ってくれた。
 私はもう口もほとんど動かせなかった。
 熱で頭ががんがんした。
 でも頑張って笑った。
 そして、それを最後に気を失った。

 私は街の大きな病院に移された。
 ここでお医者の先生のいうことをしっかり聞いて、おとなしくしていたら、
きっとよくなるから。
ママはそう言った。
ここにはあの子はいない。
 また、いつの日か、私はあの町に帰れるんだろうか。

舞夏に聞いた。
あの男の子のことを。

もう逢えないから、って言ってきた。
舞夏はそう言った。
あの男の子もわかってくれたって。

隆史は思わずえっ、と小さく叫んで横の舞夏を見やる。
舞夏は口元をゆがめ、顔を俯けた。


あの男の子も、わかってくれたって。
逢えなくても平気だから気にしないで、って言ってくれたって。

「わたしはおねえちゃんに元気になってほしかった。だから病院で病気を治すことだけ考えてほしかったの。だから嘘をついたのよ……。」
舞夏はかすれ行く言葉を絞り出すようにして紡いだ。
隆史は無言で彩佳の方をを再び見やる。

彩佳の言葉は途切れることなく続いていた。

さみしかった。
さみしかったけど、仕方がないと思った。
あの子は私がいなくても平気。
私が思うほど、逢えなくてもさびしくない。
私はやっぱりいらない子だったんだ。

私は、しばらく、何もする気がおきなかった。
すっとベッドの上で、
泣きたくても涙が出なかった。
ただ、喉の奥が締めつけられて、苦しかった。


そんな時枕元を見た。
ぬいぐるみのナマケモノさんがいた。
あの背の高い男の人がくれたぬいぐるみ。
誰かがおうちから連れてきてくれたんだ。
だっこした。
あったかかった。
さみしいよ。
さみしいよ。
さみしいよ……。

でもナマケモノさんはずっと
頑張れ、頑張れと励ましてくれた。
初めて逢ったときから、ナマケモノさんはずっと優しい。
ありがとうナマケモノさん……。

それで、私は頑張れた。
身体はなかなかよくならなかった。
ずっと熱は出るし……。

でも、少しずつ、身体の調子はよくなってきた。
そして、私は、この町に帰って来た。

私はそれだけで嬉しかった。
もう、それ以上のことは望まなかったんだ。

私は、死ぬために生きていた。
いつか来る死と常に一緒に。
そして、その時を少しでも先に延ばすように。

だから、全てを諦めていた。
それでいい。
私にとっては何もかも無理なことばかりなのだから。

私は退院の日、すぐに家を抜け出した。
中学校へ行ってみた。
ずっと夢見ていた場所。
同い年のひと達同士の何気ないおしゃべりの声、笑い声。
なにもかもが眩しかった。

そして、
あの場所へ行ってみた。
別に何かを期待していたわけじゃない。
でも、
あまりに何も変わらないその風景を見て、切なかった。
もの凄くせつなかった。

そう、私は変わってしまったから。

そして、そこで私は、再びあなたに出逢った。

一目見てすぐにあなただとわかった。
でも、信じられなかった。
そんなことって…。

でも、私はそのとき、もう一度私に戻ることが出来たの。
私は、もう一度生きてみようと思った。
もう一度心の底から笑ってみたいと思った。
上辺だけの笑顔じゃなく、本当に笑ってみたいと。
心の底からそう思ったのよ。


そして彩佳はゆっくりと目を開けた。

「彩佳…さん。」
「おねえちゃん……。」
二人がおずおずと声を掛ける。

彩佳の両手はそれぞれゆっくりとシーツの上を滑り、
二人へと差し伸べられた。

その小さな手を隆史は両手で包み込んだ。
舞夏も自分の手で握りしめる。

そして、彩佳は笑みを見せた。
儚げに小さく微笑んだ。

「河原崎さん、舞夏…。」
ちいさな声。

「ごめんなさい……。」

何が……?
隆史はそう聞き返したが、彩佳はそれには答えなかった。

そして、舞夏が、小さく叫んで倒れる。


いけない……!!


観鈴の叫び。
それと同時に、隆史の脳がもの凄い衝撃に揺さぶられた。
一瞬で意識がはじけ飛び、
そして、彼もその場に崩れ落ちた。

立ち尽くす観鈴。

彩佳ちゃん、あなた……。


彩佳はゆっくりと上体を起こすと、
観鈴を正面から見据えた。
さきほどの笑みは消えて彼女は完全に無表情だった。

観鈴は背筋に氷をつきつけられたように身ぶるいした。

彩佳は自ら閉じこめていた感情を急激に高ぶらせた。
そのことによって、その心に直接触れていた二人に急激な衝撃を与えることになったのだ。
そして、観鈴は自分の身体が消えかけているのに気付いた、

観鈴は小さくかぶりを振った。
観鈴にもつきつけられた彩佳の心。
そこに見えたのは……暗い絶望のみだった。

「あなた、二人に何をする気なの……。」

彩佳はまたゆっくりと笑みを浮かべた。

「それはこのひと達が知っていることでしょうね。」
きれいな凛とした声が病室に響いた。

「観鈴さん、ごめんなさい。ありがとう、私、本当に嬉しかったです。私は、あなた。そしてあなたは私だったものね……。さぁ、手を出して……。」

彩佳は手をさしのべる。

観鈴は気圧されながら、おずおずと片手を差し出した。
その手の平をを軽くぽんと叩いて、そっと手を引く。
そして彩佳は微笑んだ。

「あなたのバトンは私が受け取ったから。もう苦しまなくていいからね。」
優しい言葉。
「彩佳ちゃん……。」
観鈴は彩佳の笑顔をもう一度見つめ、
はにかむような笑顔を見せた。
そして観鈴はそっと彩佳を抱きしめた。
「……ごめん。ごめんね。」

「……謝ることなんてないですよ。」
「でも、でも……。」
「確かに、ずっと私、あなたのことが嫌だったかもしれません。あなたがいなければ、私がこんなに苦しむことはなかったのに、と。」
「……。」
「でも、今はそうは思わないんです。」
「……?」
「この間、病院の先生が教えてくれました。子供たちは生まれてくるとき、その子供を受け入れることの出来る親の元に生まれてくるものなんだよ、と…。」
「……!?」
彩佳は観鈴の背中に手をまわすと、ぎゅっと抱きしめた。
「それでわかったの。あなたが私を選んだのは、私だから。私ならきっと、あなたを受け入れることが出来るからなんだよ……。」
「彩佳ちゃん……。」
観鈴の声が涙でかすれる。
「ありがとう……。」
その言葉を残し、観鈴は彩佳に重なるように、彩佳の身体の中へと消えていった。

しばしの静寂。

「これでいい。これでいいのよ。あなたの想いも一緒に、ぜんぶ私が持っていってあげるからね……。」
また、薄暗さを取り戻した病室に、彩佳の声がぽつりと響いた。




隆史は眼を覚ました。
身体を起こす。
そこはあの砂浜近くの茂みだった。

彩佳も、舞夏も、観鈴と名乗ったあの少女もいなかった。

不意に頭の中に声が響く。

私達はここで出逢った。

「彩佳…。」

いきなり右手を掴まれて隆史はとびあがった。
振り向くと、そこに7年前の彩佳がいた。
小さな両手でしっかりと隆史の右手を握りしめている。
「ねえ、お話しましょうよ。」
彼女はにっこりと微笑んだ。


舞夏は眼を覚ました。
身体を起こす。
そこは、学校の体育倉庫の前だった。
傍らにボールが転がっている。
そばに隆史が立っていた。
無言で立ち尽くしている。
あの日の昼休みだ。

彩佳も、観鈴と名乗ったあの少女もいなかった。

いや、一方はそこにいた。
舞夏はそれに気が付いた。

二階の窓からじっと自分をみている視線。

彩佳がそこにいた。
舞夏の方をじっと見つめていた。

チャイムが鳴った。
彩佳の姿が窓辺から不意に消える。

いきなり背後から両肩を抱かれて舞夏はとびあがった。

「見ていたのよ、私…。」
振り返るとそこに彩佳の笑顔があった。乾いた笑顔。

「おねえちゃん……。」

「ずるいわよね。あなたは。」
「……。」
「普通に学校に行って、普通に勉強して、普通に部活をして、普通に人を好きになって……。」
「それがどんなに幸せなことか。」

「ごめん。ごめんなさい、おねぇちゃん……。」

「何をあやまるのよ。あなたは何もわるくないじゃない。あなたは「私のために」いろんなことをしてくれたじゃないの。」

「そう。あなたは昔からそうだったわね。」

「私から何もかも取り上げる……、私が本当に欲しいと思ったものはみんな独り占めにするのよ。」

「そんな……。そんなことないよ。」

「忘れたのなら、思い出させてあげる。」

「この間、私が学校で倒れた日よ。」

またも周囲は様相を変えた。
そこは学校の保健室。ベッドに彩佳が寝ている。
舞夏が枕元の椅子に座っている。
舞夏は口を開く。
「おねえちゃん、目が覚めた?」
軽く頷く彩佳。
「じゃ、おうちに帰りましょ。」
河原崎さんは……?
彩佳は呟いて、そして腹部を襲う痛みに顔をしかめた。

「彩佳。あの人のことはもう考えないで。」
「……。」
「お願い、おねえちゃんは自分の身体のことだけ考えて。」
「……。」
「あの人のことになると彩佳はおかしくなるのよ。昔からずっとそう。」
目を逸らし顔をそむける彩佳。
「河原崎さんには全部話したわ。」
「……全部?」
「ええ、河原崎さんはわかってくれたわ。」
再び舞夏へと彩佳は視線を向けた。
「もう彩佳とは逢わないと、そう言ってくれたわ。」
「そんな……ひどい。どうして……。」
彩佳は上体を起こして舞夏に向き直る。
舞夏はその瞳を見つめて言った。
「彩佳……、あなた、あのひとを抱きしめてあげられるの?」
「……。」
「あの人に何をしてあげられるの……?」
「……。」
「あなたは、あの人にとって負担になるだけ。もうすぐインハイの予選だってあるのに……。」
「でも、でも……。」
「河原崎さんと逢うたびにおねえは体の具合を悪くする。」
「……。」
「私は、おねえの苦しむ姿はもう見たくないのよ。」
「嘘よ。」
「……何が……?」
「舞夏、あなたあの人のことが好きなんでしょう。だから、だからそんなこと言うんだ。」
「は?何を言ってるの……。」
彩佳は舞夏の肩を掴み、思い切り揺さぶった。
「そうなんだ。そうなんだ。舞夏、あなた、お兄ちゃんを私に取られたと思ったから。その仕返しなんでしょ。そうなんでしょ。」
「いい加減にしてよ、彩佳!!」
「わけのわからないこと言わないで。私は河原崎さんのことなんてなんとも思っちゃいない。」
「私のことが嫌いなら、はっきりそう言ってくれればいいのよ。」
「ええ、嫌いだわよ。そんな聞き分けのない彩佳は大嫌いだわ。河原崎さんだってそうよ。あんたと逢わないで、って言ったら、すぐに納得してくれたわ。あの人にとって彩佳はそれだけのものでしかなかったのよ!!」

「……。」
彩佳は呆然と舞夏の顔を見つめて、そして、ベッドの上に身体を折り、突っ伏した。

そして、激しく嘔吐を繰り返した。
発作は止まる兆しを見せなかった。


その情景を眺めながら現在の二人は立っていた。
舞夏の耳元で彩佳が笑う。
「あなたの言う通りだったのでしょうね。勿論。」
「……。」
「でもね。私は、それで何もかも失ってしまったのよ。」
「それまで少しずつ積み上げてきたものを、生きる意味を失ってしまった。何をする気力もなくなった。全てがどうでもよくなった……。」
「……。」
「あなたにはわからないでしょうね。」

「……わかるわけないじゃない!!」
たまりかねて舞夏は叫んだ。
「もういい加減にしてよ、おねえちゃん……。」

「ここではっきりさせてよ……。」
「な、何をよ……?」
「舞夏、好きなんでしょ、河原崎さんのこと。」

「なんのことよ……。」

「どんなに隠しても無駄よ。」
「……。」
「だって、私たちは双子。貴方は私、私は貴方。私たちは元々、一つだったのだもの。」
「……。」

「あなた、あの時と同じ眼をしてた。お兄ちゃんのときと。」
「やめて……。」
舞夏は耳をふさぎ、そして床にしゃがみこんだ。
「舞夏、あなたはずっと私のこと嫌いだったんだよね……。」
頭上に、彩佳の声が小さく響く。
舞夏は我知らず叫び声をあげていた。

「違うわ。」
「違くない。」
「違う。」
「違くない。」
「違うわ……。」
「違くない。」
「……。」

「ねえ、もういいでしょ。」

「……?」

「さよなら。」
彩佳は舞夏を抱き寄せるとその頬に口づけた。
「もう、何も我慢しなくていいからね。」



「……ねぇ、お話しましょう。」
振り返り、彩佳をみつけた隆史は戸惑った。
彼女は7年前の彼女だった。

周囲を見回す。そこは……懐かしい場所。

「そう、ここが私たちの出逢った場所。」
隆史の心の中を見透かしたかのように、彩佳は呟いた。
「ようやく、逢えたね。」
いつもの小さな声だった。
「楽しかったあの時……。」
少女は隆史の腕を両腕でぎゅっと抱きしめた。
「逢いたかった。」
「寂しかった。」
その小さな身体を震わせて少女は泣いた。

隆史はしゃがみこむと左手で少女を抱きすくめた。

「僕も、ずっと会いたかった。ずっと。」

「ごめんなさい。」
「ごめん……。」
二人の言葉が重なる。
「ごめんなさい、私、身体を悪くして…、ずっと会いに行けなくて……。」
「いや、悪いのは僕だよ。心のどこかで逃げていたんだ。ずっとそばにいるって約束したのに……。ごめん……。」
少女はかぶりを振った。
「ごめんなさい。私、本当はお別れを言いに来たの。」
「……?」
「私は、あなたに好いてもらえるような子じゃないから……。」
「……?」
「私の前ではみんな何かを我慢しなきゃならないよね……。」
「もう、誰も私のせいで辛そうな笑顔をしたりしてほしくない……。だからさよならなの……。」

しかし少女はそれ以上言葉を続けることが出来なかった。
少年が固く固く彼女を抱きしめていた……。
「お願いだから、行かないで……。それがわがままだってことはわかってる。でも……。」
「もう一人はいやなんだ……。」

少女の首筋に熱く冷たい涙が滴り落ちた。
少女は微かに微笑んだ。
「みて、たかしくん。」
少女は遙かな水平線の彼方を見つめていた。
少女を横抱きにしながら、隆史もその視線の先を振り返る。
「ほら、夕陽がきれい。」

あの日の夕陽。彼女の見なかった紅く輝く太陽。
その眩しさ、愛おしさに少年は眼を奪われ、
そして時を忘れた。

「きれいだね……。」


「隆史さん、あのね……。」
それだけ言って、彼女は顔を赤らめた。
あの……、その……。
言葉が出てこないようだった。

やがて、
限りなく微かな声が、
少年の耳元でかすれた。



わたしね、今、とってもしあわせだよ。


そして、少年はそれに気付いた。
彼の腕の中で、いつしか彼女は現在の姿へと戻っていた。
微笑んだまま、彼女は。

彩佳は……。




























隆史はゆっくりと眼を覚ました。
誰かの声がきこえている。
舞夏だ。
泣きじゃくっている舞夏の声だ。

そして気付いた。
隆史の手を精一杯の力で握って離さない、か細い白い手のことに。

そして顔をあげ、見つけた彼女の顔……。

満ち足りた笑顔。
満面の笑み。
幸せそうな笑顔がそこにあった。


彼女は息をしていなかった。
ただ静かに彼女はわらっていた。

本当に幸せそうに笑っていた。


























夏は終わった。


今日も隆史は堤防の上で夕陽をみつめていた。

変わらない夕陽。

彼女がいなくなっても、やはり何も変わらない夕陽だった。

変わらなく美しくて、そして胸を締めつけた。

いつしか、隣りに少女が立っていた。
風になびく長い髪。
白いワンピース。
麦藁帽子。

隆史は少女に呼びかける。
「どうした?彩香……。」

少女は答える。
「お母さんが呼んできてって。お父さんいつものとこにいるだろうからって。ご飯だよ。」

「ああ。ありがとう。」

「ありがとう、彩佳。」
口の中で呟く隆史。

「お父さん……? なに……?」
「あ、いや、なんでもない。今日の晩ご飯なんだろな。」
「カレーだよ。私、ちゃんと手伝ったんだよ……。」
「そうか……偉いな彩香は。」
「それとね、お父さん。」
「……なんだい?」

「あのね、あのう、私ね、好きなひとができたんだよ。」

隆史は一旦驚いた顔をし、そして泣き出しそうな顔をし、
そして最後に心から嬉しそうな顔で笑った。

「それはそれは……、おめでとうな。」
隆史はしゃがみこんで彩香を抱きしめた。
そのはずみで麦藁帽子が外れ、あごひもでぶら下がり、少女の小さな背中の後ろで静かに揺れた。
「お父さん、ひげが痛いよ。」
少女が抗議の意を示す。
「ごめん、少しの間だけこうさせてくれないか。」
「もう……、しょうがないなぁ。」

やがて、隆史は彩香の肩に手を置くと、ゆっくりと立ち上がった。
ズボンの埃を払う。
そして夕陽を振り返った。

「彩佳、君はずっとおとなの蝉だったんだよ……。そう、きっと最初から。それは君が生まれたときからずっとなんだ。それは誰だっておんなじなんだよ。」

微かな声はゆるやかな風に溶ける。
そして風は夕凪のさざ波に溶けて消えた。


「さ、帰ろうか。」
「うん。」
そして二人は堤防の向こう側へ姿を消した。

波が静かに音を立てた。
波打ち際に女の子が立っていた。
その背の翼は夕陽に黄金に映え輝いた。

少女は静かに微笑むと、翼をはためかせ、ゆっくりと舞い上がった。
遙か空の上へ。
高く、高く。

だが、男はもう、それを見ることはなかった。
二度と振り向くことはなかった。

ただ、変わらぬ夕陽が、浜辺を鮮やかな紅に染め上げていた。

(終)

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